演義の場面
救寿春於詮死節 救壽春於詮死節
事件紹介
この場面は演義第112回の回目「救寿春於詮死節」の場面で、諸葛誕の乱において諸葛誕を救うため寿春城に入った呉の将於詮が、城が陥落すると降伏を拒んで戦い死ぬくだりである。演義は、呉の救援軍が次々に崩れ、城内の将が相次いで降伏した末に司馬昭が寿春を破る過程の中にこの場面を置く。 演義 第112回 §6 · 9–11 · 15–16
陳寿の本文に於詮は出てこず、裴松之注が引く干宝の『晋紀』にのみ、彼が兜を脱いで敵陣に飛び込み死んだという記録がある。寿春の包囲と呉の救援は魏書巻28諸葛誕伝と呉書巻3三嗣主伝・巻19の孫綝の伝に記されている。 正史 魏書 巻28 §36–42正史 呉書 巻3 §16–18正史 呉書 巻19 §84–86
演義の描写
演義第112回で司馬昭は鍾会の計に従い、牛・馬・驢馬・騾馬をおとりに並べて諸葛誕と呉軍を誘い出し、石苞・州泰と王基・陳騫の軍で大いに破って寿春城に追い込む。鍾会は三方からのみ攻めて南門を開けておき、敵が自ら逃げるようにしようと言い、安豊にいた孫綝は朱異に、再び勝てなければ斬ると叱る。 演義 第112回 §1–5
呉の将於詮は包囲されていない南門から入って諸葛誕を助け、内外から挟撃しようと言い、全懌・全端・文欽らと1万で城に入る。しかし外から攻めるはずだった朱異は王基・陳騫に敗れて孫綝に斬られ、全端の子全禕が司馬昭に降って手紙を送ると、全懌と全端も城門を開いて出ていく。蒋班と焦彝までもが城を越えて降り、糧食が尽きると北方の兵を出そうと言った文欽は諸葛誕に殺され、その子の文鴦・文虎は司馬昭に降って関内侯となる。 演義 第112回 §6–14
城内の人心が変わると司馬昭は総攻撃をかけ、曾宣が北門を開いて魏軍を入れ、間道から抜け出そうとした諸葛誕は胡奮に斬られる。西門で王基と出くわした於詮は、命を受けて人の難を救いに来て救えず、そのうえ降伏するのは義としてできないとして兜を地に投げつけ、戦場で死ねるなら幸いだと叫んで30余合戦い、乱軍の中で死ぬ。司馬昭は降伏せずに死んだ諸葛誕の部下数百人を葬り、鍾会の言に従って呉の兵を本国へ帰す。 演義 第112回 §15–22
演義と異なる点
呉軍が城に入った道:演義第112回で於詮・全懌・全端・文欽は鍾会の計で空けておいた南門から入る。正史魏書巻28の諸葛誕の記事では、王基が着いたばかりで包囲がまだ完成していない時に、唐咨・文欽らが城の東北から山の険しさに乗じて軍勢を率いて入った。 演義 第112回 §4–6正史 魏書 巻28 §36
朱異の死:演義第112回で朱異は王基・陳騫に敗れて戻り、孫綝に斬られる。正史孫綝伝では、胡烈が都陸に蓄えてあった朱異の糧食を焼き払った後、孫綝は3万を与えて死戦させようとしたが、朱異が従わなかったので鑊里で斬った。 演義 第112回 §7–8正史 呉書 巻19 §86
呉兵の処置:演義第112回では裴秀が穴埋めにしようと言い、鍾会が止めて呉兵を本国へ帰す。正史諸葛誕伝では、議する者がみな穴埋めにしようと言うと、大将軍は元凶を殺すだけでよいとして一人も殺さず、三河の近郡に分けて住まわせた。 演義 第112回 §21–22正史 魏書 巻28 §44
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