李勝
人物紹介
李勝は南陽の人で、魏の河南尹・荊州刺史であった。正史には独立した伝がなく、曹爽伝と三少帝紀に登場する。何晏・鄧颺らとともに名声があったが、明帝は浮華であるとして退け、曹爽が政権を握るとふたたび登用されてその腹心となった。 正史 魏書 巻9 §73 · 76正史 魏書 巻4 §28
正始9年(248)冬、荊州刺史として赴任することになって太傅の司馬宣王(司馬懿)を訪ねたが、病が重いという彼の偽りを見抜けなかった。嘉平元年(249)正月、司馬宣王が曹爽兄弟を免職させた後、曹爽と姦謀を通じたとして曹爽らとともに処刑され、三族を滅ぼされた。 正史 魏書 巻9 §79 · 88正史 魏書 巻4 §28
陳寿は魏書巻9の評で曹爽を「徳薄くして位尊し」と述べただけで、李勝を別に評してはいない。演義では第106回に、曹爽の門下で浮華を尊んだ五人の一人として初めて登場し、120回のうち2回に登場する。第106回の回目にある「司馬懿 病を詐りて曹爽を賺す」の場面では、曹爽の命で司馬懿の病状を探りに行く。 正史 魏書 巻9 §132演義 第106回 §34 · 43–44
正史の記録
明帝が崩じて斉王が即位した後、曹爽の弟たちは中領軍・武衛将軍・散騎常侍などとなって宮中に出入りした。陳寿は、南陽の何晏・鄧颺・李勝、沛国の丁謐、東平の畢軌がみな名声があり、時流に乗って出世を求めたが、明帝は彼らを浮華であるとしてみな抑えて退け、曹爽が政権を握るとふたたび登用して腹心としたと記した。 正史 魏書 巻9 §72–73
鄧颺らは曹爽に天下に威名を立てさせようと蜀を討つよう勧め、司馬宣王(司馬懿)は止めたが阻めなかった。正始5年(244)、曹爽は長安に至って兵6~7万人を大いに徴発し、駱谷から入ったが、敵が山に拠って固く守ったので進めなかった。参軍の楊偉が急いで帰るべきだと言うと、鄧颺は曹爽の前で彼と言い争い、楊偉は「鄧颺と李勝が国家の事を台無しにしようとしているので、斬るべきだ」と言った。曹爽は不快に思ったが、軍を率いて帰還した。 正史 魏書 巻9 §74–75
はじめ曹爽は、司馬宣王が年齢も徳もともに高いとして父のように仕えた。何晏らが登用されると、彼らはともに曹爽を推戴し、権力が重いので他人に委ねてはならないと説いた。そこで何晏・鄧颺・丁謐が尚書となって何晏が人材の選挙をつかさどり、畢軌が司隷校尉、李勝が河南尹となって、諸事が司馬宣王を経ることはまれになった。司馬宣王はついに病と称して曹爽を避けた。陳寿は続けて、何晏らが政権を独占し、典農部の桑田を分け取り、官物をひそかに着服したと記した。 正史 魏書 巻9 §76
司馬宣王はひそかに備えていた。正始9年(248)冬、李勝は荊州刺史として赴任することになり、司馬宣王を訪ねた。司馬宣王は病が重いと称して衰弱した姿を見せ、李勝はそれを見抜けず、本当にそうだと思い込んだ。 正史 魏書 巻9 §79
翌年正月、天子の車駕が高平陵に参拝に出かけ、曹爽兄弟がみな従うと、司馬宣王は兵を整えてまず武庫を占拠し、洛水の浮橋に駐屯したうえで、曹爽兄弟の吏兵を罷めさせ、列侯の身分で邸宅に帰らせるよう上奏した。曹爽は侍中許允と尚書陳泰の説得を受け入れて罪を認め、曹爽兄弟は免職されて邸宅に戻った。 正史 魏書 巻9 §80 · 83 · 85
これより先、黄門の張当がひそかに選んでおいた才人たちを曹爽に与えたことで、張当を捕らえて罪を問うと、張当は、曹爽が何晏らとひそかに反逆を謀り、あらかじめ軍事訓練までして3月中に事を起こそうとしていたと供述した。公卿と朝臣の議を経て、曹爽・曹羲・曹訓・何晏・鄧颺・丁謐・畢軌・李勝・桓範・張当らはみな処刑され、三族を滅ぼされた。 正史 魏書 巻9 §87–88
三少帝紀は、嘉平元年(249)正月戊戌の日、担当の官吏が張当を捕らえて廷尉に引き渡し、その供述を調べて曹爽が彼とともに反逆を謀ったことを確かめたと記す。また、尚書丁謐・鄧颺・何晏、司隷校尉畢軌、荊州刺史李勝、大司農桓範がみな曹爽と姦謀を通じたので三族を滅ぼしたとする。 正史 魏書 巻4 §28
魏書巻9末の評で陳寿は、曹爽が徳薄くして位尊く、盈溢に溺れたと述べただけで、李勝を別に評してはいない。陳寿の本文は、李勝の字、河南尹となる前の官歴、年齢を記していない。 正史 魏書 巻9 §132 · 73–88
演義の描写
演義第106回は、曹爽の門下に食客五百人がいて、そのうち五人が浮華を互いに尊んだとして、何晏・鄧颺・丁謐・畢軌とともに「李勝、字は公昭」を挙げる。曹爽は何晏の言を聞いて司馬懿を太傅に昇らせたのち、何晏・鄧颺・丁謐を尚書に、畢軌を司隷校尉に、李勝を河南尹とし、この五人は昼夜曹爽と事を議する。 演義 第106回 §34–36
同じ回で、魏主曹芳が正始10年を嘉平元年と改めた頃、魏主が李勝を荊州刺史に任じると、曹爽は彼に仲達(司馬懿)へ暇乞いをさせて様子を探らせる。司馬懿は「曹爽がわしの病の真偽を探りに寄こしたのだ」と言い、冠を脱いで髪を振り乱し、布団を抱えて座り、侍女二人に支えられて彼を招き入れる。 演義 第106回 §43–44
李勝が荊州刺史となって暇乞いに来たと言うと、司馬懿はわざと「并州は朔方に近いから、よく備えなさい」と答える。李勝が并州ではなく「漢水のほとりの荊州」だと重ねて言っても、司馬懿は「そなたは荊州から来たのか」と笑い、左右が太傅は耳が遠くなられたと言うと、李勝は紙と筆を借りて書いて差し出す。司馬懿は湯を飲んで襟をぐっしょり濡らし、むせぶ声で、死は朝夕に迫っているので、大将軍に会ったら二人の息子をよろしく頼むと言う。 演義 第106回 §45–46
李勝が戻って詳しく話すと、曹爽は「この老いぼれが死ねば、わしに憂いはない」と大いに喜ぶ。司馬懿は李勝が去るとすぐに起き上がり、李勝が知らせれば曹爽は自分を警戒しなくなるから、彼が城を出て狩猟する時を待って事を図ると二人の息子に言う。 演義 第106回 §47
第107回で李勝は、曹爽に従って城を出た腹心の一人として名が見える。司馬懿が獄に入れた黄門の張当は、自分一人ではなく「何晏・鄧颺・李勝・畢軌・丁謐ら五人」がともに簒逆を謀ったと言い、捕らえられて尋問された何晏らはみな3月中に反乱を起こそうとしていたと白状する。司馬懿は曹爽三兄弟と連座した罪人を市で斬り、三族を滅ぼす。 演義 第107回 §1 · 22–23
演義と異なる点
字:演義第106回は「李勝、字は公昭」と紹介する。陳寿の本文は、曹爽伝にも三少帝紀にも李勝の字を記していない。 演義 第106回 §34正史 魏書 巻9 §73–88正史 魏書 巻4 §28
明帝の時のこと:正史曹爽伝で李勝は、何晏らとともに明帝に浮華であるとして抑えて退けられ、曹爽が政権を握った後にふたたび登用される。演義第106回は彼を曹爽の門下の食客五百人のうち五人の一人として紹介するだけで、明帝が退けたことは記さない。 演義 第106回 §34正史 魏書 巻9 §73
河南尹となった経緯:演義第106回では、曹爽が何晏の言を聞いて司馬懿を太傅に昇らせた直後に、李勝を河南尹とする。正史で司馬宣王を太傅に移させたのは丁謐の策であり、李勝の河南尹任命は、司馬宣王に父のように仕えていた曹爽を、登用された何晏らが説いた後のことと記されている。 演義 第106回 §35–36正史 魏書 巻9 §72 · 76
駱谷出征:正史では、正始5年(244)の曹爽の駱谷出征の際に参軍の楊偉が「鄧颺と李勝が国家の事を台無しにしようとしているので、斬るべきだ」と言った。演義には曹爽の駱谷出征も楊偉も出てこない。 正史 魏書 巻9 §74–75演義 第106回 §33–37
荊州刺史となった時期:演義第106回では、正始10年を嘉平元年と改めた後に、魏主が李勝を荊州刺史に任じる。正史曹爽伝は、李勝が荊州刺史として出ることになったのを正始9年(248)冬のこととして記す。 演義 第106回 §43正史 魏書 巻9 §79
司馬懿を訪ねた理由:演義第106回では、曹爽が李勝に暇乞いをさせて司馬懿の様子を探らせる。正史曹爽伝は、李勝が荊州刺史として出ることになって司馬宣王を訪ねたと記すだけで、曹爽が彼を遣わしたという話はない。 演義 第106回 §43正史 魏書 巻9 §79
病を装った場面:演義第106回の并州と荊州を取り違える問答、紙と筆、湯が襟を濡らす場面は陳寿の本文にない。正史曹爽伝は、司馬宣王が病が重いと称して衰弱した姿を見せ、李勝が見抜けずに本当にそうだと思い込んだと記すだけである。 演義 第106回 §45–46正史 魏書 巻9 §79
高平陵への行幸:演義第107回で李勝は、曹爽に従って城を出た腹心の中に名が挙がる。正史の高平陵の段は曹爽兄弟がみな従ったと記すだけで、李勝の名はない。 演義 第107回 §1正史 魏書 巻9 §80正史 魏書 巻4 §28
処刑:演義第107回では、張当の供述に李勝を含む五人の名が挙がり、司馬懿が何晏らを尋問して自白を得たのち、市で斬る。正史では、張当の供述の後、公卿と朝臣の議を経て処刑され、三少帝紀は荊州刺史李勝が曹爽と姦謀を通じたとして三族を滅ぼしたと記す。陳寿の本文は処刑の場所を明らかにしていない。 演義 第107回 §22–23正史 魏書 巻9 §87–88正史 魏書 巻4 §28
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率3531−4
- 武力3131±0
- 知力2518−7
- 政治3835−3
- 魅力4538−7
- 徳2828±0
- 処世2218−4
- 文芸4540−5
- 弁舌3535±0
- 用人3533−2
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
10点以上の差がある項目はありません — 演義も正史とほぼ同じように描いています。
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正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。