費観 費觀

正史演義 字 賓伯 Fei GuanBinbo비관빈백费观

プロフィール
職業正武将 · 振威将軍所属
登場正演収録
出生出身地江夏郡 鄳県
実在実在言及正4回

人物紹介

費観は字を賓伯といい、江夏郡鄳県の人である。劉璋の母は彼の一族のおばであり、劉璋は娘を彼に嫁がせた。正史には独立した伝がなく、蜀書巻15鄧張宗楊伝に載る楊戯の『季漢輔臣賛』の賛の下に、陳寿がその事績を短く注記している。 正史 蜀書 巻15 §33 · 46

建安18年(213)、李厳の軍に加わって綿竹で劉備を防いだが、李厳とともに降伏した。裨将軍となり、のちに巴郡太守・江州都督を務め、建興元年(223)に都亭侯に封じられ、振威将軍を加えられた。37歳で死去した。 正史 蜀書 巻15 §46–47

陳寿は、彼の事績が伝わらないため伝を立てなかったと記し、巻15の評でも彼を取り上げていない。演義では第64回に劉璋の妻の弟として初めて登場し、全120回のうち2回に登場するが、回目に名が入った回はない。第65回で李厳の説得を受け、城門を開いて降伏する。 正史 蜀書 巻15 §47 · 85演義 第64回 §31演義 第65回 §6

正史の記録

費観は字を賓伯といい、江夏郡鄳県の人である。劉璋の母は費観の一族のおばであり、劉璋はさらに娘を費観に嫁がせた。 正史 蜀書 巻15 §46

建安18年(213)、費観は李厳の軍に加わって綿竹で劉備を防いだが、李厳とともに降伏した。李厳伝は、この年劉璋が李厳を護軍として綿竹で劉備を防がせ、李厳が兵を率いて降伏して裨将軍となったと記す。 正史 蜀書 巻15 §46正史 蜀書 巻10 §41

劉備が益州を平定すると、費観は裨将軍に任じられた。先主伝は、董和・黄権・李厳ら劉璋が任用した人々、呉懿・費観ら劉璋の姻戚、劉璋に排斥された彭羕、かねて忌み恨んでいた劉巴を、みな高い地位に置いてその才能を尽くさせたと記している。のちに費観は巴郡太守・江州都督となり、建興元年(223)に都亭侯に封じられ、振威将軍を加えられた。 正史 蜀書 巻15 §46正史 蜀書 巻2 §34

費観は人との交際が巧みであった。都護の李厳は性格が自らを誇って傲慢で、護軍の輔匡ら年齢と地位の近い者とも親しくしなかった。しかし費観は李厳より二十歳以上年下であったのに、李厳と同年輩のように打ち解けて付き合ったという。費観は37歳で死去した。陳寿は彼が死んだ年を記さず、その事績が伝わらないので伝を立てなかったと述べた。 正史 蜀書 巻15 §47

楊戯が延熙4年(241)に著した『季漢輔臣賛』は、その才幹は文武ともに人々を感嘆させ、官にあって任務を治めては穏やかに事理を見分けて処理し、財を殖やして施し、義があり秩序があったと称えた。陳寿は巻15の評で鄧芝・張翼・宗預・楊戯を論じただけで、費観は取り上げていない。 正史 蜀書 巻15 §33 · 46 · 85

演義の描写

演義第64回で、劉璋は妻の弟費観を遣わして綿竹を守らせ、費観は南陽の人李厳を推挙してともに兵を率いる。二人は兵三万を点呼して綿竹を守りに来る。 演義 第64回 §31–32

第65回で、綿竹を取ろうとする劉備方の黄忠と魏延が進んでくると、費観はこれを聞いて李厳を出して迎え撃たせる。李厳は黄忠と四、五十合戦っても勝負がつかず、翌日黄忠の偽りの敗走に誘われて山の谷間に入り込むと、行く手を魏延に塞がれ、諸葛亮が山頂から降伏を呼びかけると、馬を下りて鎧を脱ぎ降伏する。 演義 第65回 §3–5

李厳は、費観は劉益州の親戚ではあるが自分とは非常に親しいと言い、行って説得すると申し出る。綿竹城に入った李厳が劉備の仁徳をほめ、いま降伏しなければ必ず大きな禍があると言うと、費観はその言葉に従って城門を開いて降伏し、劉備は綿竹に入る。同じ回で劉備が益州牧となり、降伏した文武の官員六十余人をすべて抜擢するとき、費観の名も挙がる。 演義 第65回 §6 · 46

演義と異なる点

綿竹の指揮:演義第64~65回では劉璋が遣わした費観が李厳を推挙し、二人がともに綿竹を守りに来て、費観が李厳を出して迎え撃たせる。正史では費観が李厳の軍に加わっており、李厳伝は劉璋が李厳を護軍として綿竹で劉備を防がせたと記す。 演義 第64回 §31–32演義 第65回 §3正史 蜀書 巻15 §46正史 蜀書 巻10 §41

降伏:演義第65回では、山の谷間で先に降伏した李厳が城に戻って費観を説得し、費観が城門を開いて降伏する。正史では費観が李厳とともに降伏したとだけ記す。 演義 第65回 §5–6正史 蜀書 巻15 §46

劉璋との関係:演義は第64回で費観を劉璋の妻の弟とし、第65回では李厳の言葉で「劉益州の親戚」と呼ぶ。正史では劉璋の母が費観の一族のおばであり、劉璋は娘を費観に嫁がせた(娘婿)。 演義 第64回 §31演義 第65回 §6正史 蜀書 巻15 §46

降伏後:演義第65回で費観は抜擢された六十余人の中に名が出るだけで、その後は登場しない。正史では裨将軍となり、のちに巴郡太守・江州都督を経て建興元年(223)に都亭侯・振威将軍となり、37歳で死去した。 演義 第65回 §46正史 蜀書 巻15 §46–47

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率5546−9
  • 武力4640−6
  • 知力4540−5
  • 政治6040−20
  • 魅力6242−20
  • 徳5840−18
  • 処世5050±0
  • 文芸4535−10
  • 弁舌5038−12
  • 用人4038−2
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

政治正60演40推定 −20

正官にあって穏やかに事理を見分けて処理し、巴郡太守を務めた蜀書 巻15 §46

演直接の記録なし — 降伏後に登用されたことから推定第65回 §46

魅力正62演42推定 −20

正人との交際が巧みで、傲慢な李厳とも打ち解けて付き合った蜀書 巻15 §47

演直接の記録なし — 劉璋の妻の弟であることから推定第64回 §31

徳正58演40 −18

正賛は財を殖やして施し、義があったと言う蜀書 巻15 §46

演劉璋の妻の弟でありながら、李厳の勧めで城門を開いて降伏した第65回 §6

弁舌・外交正50演38推定 −12

正年齢も性格も異なる李厳と同年輩のように付き合った蜀書 巻15 §47

演直接の記録なし — 事績から推定第65回 §6

文芸・学術正45演35推定 −10

正賛は文武を兼ねたと言う蜀書 巻15 §46

演直接の記録なし — 事績から推定第64回 §31

近い項目 5件 — 根拠を見る
  • 統率正55演46 −9

    正綿竹で先主を防ぎ、のちに江州都督・振威将軍となった蜀書 巻15 §46

    演李厳とともに三万を率いて綿竹を守り、李厳を出して迎え撃たせた第64回 §32第65回 §3

  • 武力正46演40推定 −6

    正賛は文武ともに人々を感嘆させたと言う蜀書 巻15 §46

    演直接の記録なし — 事績から推定第64回 §31

  • 知力正45推定演40推定 −5

    正直接の記録なし — 才幹があるという賛から推定蜀書 巻15 §46

    演直接の記録なし — 事績から推定第65回 §3

  • 処世正50演50 ±0

    正李厳とともに降伏し、劉璋の姻戚でありながら高い地位に用いられた蜀書 巻15 §46蜀書 巻2 §34

    演李厳の言葉に従って降伏し、劉備に登用された第65回 §6第65回 §46

  • 識人・用人正40推定演38推定 −2

    正直接の記録なし — 事績から推定蜀書 巻15 §47

    演直接の記録なし — 事績から推定第65回 §3

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(2回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

所属の変遷

  1. 劉璋勢力 (~213) · 正史 · 「觀建安十八年參李嚴軍,拒先主於綿竹,與嚴俱降」 · 「吳壹、費觀等又璋之婚親也」

関連事件(1)

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