李球

正史演義 蜀 Li Qiu이구

プロフィール
職業正武将 · 羽林右部督所属蜀
登場正演収録
出生正? 演? 推定出身地益州郡 俞元県 推定
死去正263年 演(同じ) 推定死去地正演綿竹県
死因正戦死 演戦死 推定
実在実在言及正1回

人物紹介

李球は蜀の羽林右部督で、李恢の弟の子である。正史には独立した伝がなく、李恢の伝の末尾に「李恢の弟の子李球は羽林右部督として諸葛瞻に従って鄧艾を防ぎ、陣に臨んで命を捧げ、綿竹で死んだ」という一文で登場する。 正史 蜀書 巻13 §18

後主伝は、鄧艾が衛将軍諸葛瞻を綿竹で破ったことを景耀6年(263)冬に記す。陳寿の本文は李球の字・生年、羽林右部督となった時期を記さない。 正史 蜀書 巻3 §43正史 蜀書 巻13 §18

演義には第117回にのみ登場し、全120回のうち1回だけで、名が回目に入った回はない。演義は彼を、回目「諸葛瞻 綿竹に戦死す」のその戦いで、諸葛瞻父子が死んだのち鄧艾が綿竹を攻めると、張遵・黄崇とともにそれぞれ一隊の兵を率いて打って出て、みな戦死する人物として描く。 演義 第117回 §44–47

正史の記録

李球は正史に独立した伝がなく、蜀書巻13黄李呂馬王張伝に収められた叔父李恢の伝の末尾に登場する。建興7年(229)、交州が呉に属することになると、李恢は刺史の職を解かれて建寧太守を兼ね、本郡に戻って住み、のちに漢中に移り住んで9年(231)に死去し、子の李遺が跡を継いだ。陳寿は続けて「李恢の弟の子李球は羽林右部督として諸葛瞻に従って鄧艾を防ぎ、陣に臨んで命を捧げ、綿竹で死んだ」と記した。 正史 蜀書 巻13 §17–18

後主伝によれば、景耀6年(263)夏、魏は征西将軍鄧艾・鎮西将軍鍾会・雍州刺史諸葛緒に命じて数道から並んで蜀を攻めさせ、その冬、鄧艾が衛将軍諸葛瞻を綿竹で破った。諸葛亮伝に収められた諸葛瞻の記録は、鄧艾が陰平から景谷道を経て間道から入ってくると、諸葛瞻は諸軍を率いて涪県に至って留まり、先鋒が破られると退いて綿竹に留まったと記す。諸葛瞻は、降伏すれば上表して琅邪王としようという鄧艾の書簡に怒ってその使者を斬り、ついに戦ったが大敗し、陣中で死んだ。長男の諸葛尚も彼とともに死んだ。 正史 蜀書 巻3 §43正史 蜀書 巻5 §60–61

鄧艾伝によれば、鄧艾は子の鄧忠らをその右に、司馬の師纂らをその左に出した。二人が戦いに利あらずともに退き戻って、賊は撃てないと言うと、鄧艾は存亡の分かれ目はこの一挙にあると怒り、彼らを叱りつけて斬ろうとした。鄧忠と師纂は馬を馳せて引き返し、再び戦って大いに破り、諸葛瞻と尚書張遵らの首を斬った。黄権の伝は、彼が蜀に残した子である尚書郎黄崇もこの戦いで軍士を率いて励まし、必死を期して戦い、陣中で殺されたと記す。陳寿の本文は、李球がこの戦いでどのように戦ったかをそれ以上記さない。 正史 魏書 巻28 §72正史 蜀書 巻13 §10 · 18

演義の描写

演義第117回で、鄧艾がその年の10月に陰平から兵を出して蜀に入ると、諸葛瞻は後主から成都の将兵7万を授かり、長男の諸葛尚を先鋒として魏軍を迎え撃ちに出る。綿竹の近くで諸葛瞻は孔明の木の遺像を車に載せて師纂と鄧忠を驚かせて逃げさせ、再び戦いに来た二人も退けて魏軍を大いに破る。 演義 第117回 §13 · 29–30 · 33–37

鄧艾が書簡を送り、帰順すれば上表して琅邪王にしようと誘うと、諸葛瞻は書簡を引き裂いて使者を斬る。しかし鄧艾が自ら兵を率いてやって来ると、打って出たものの両側から湧き出た伏兵に大敗して綿竹に退き入り、魏軍は綿竹を鉄桶のように包囲する。援軍が来ないので、諸葛瞻は子の諸葛尚と尚書張遵を残して城を守らせて打って出るが、矢を受けて落馬すると剣を抜いて自ら首をはねて死ぬ。これを見た諸葛尚も打って出て、陣中で死ぬ。 演義 第117回 §38–41 · 43–45

鄧艾はその忠義を哀れんで諸葛瞻父子を合葬し、隙に乗じて綿竹を攻める。張遵・黄崇・李球の三人がそれぞれ一隊の兵を率いて打って出るが、蜀兵は少なく魏兵は多く、三人もみな戦死し、鄧艾はこうして綿竹を得て成都を取りに向かう。演義で李球の名が見えるのはこの一節だけで、その官職や李恢との関係は明らかにされない。 演義 第117回 §46–47

演義と異なる点

家系:正史の李恢伝は、李球を李恢の弟の子と記す。演義第117回は彼の名を挙げるだけで、李恢との関係を明らかにしない。 正史 蜀書 巻13 §18演義 第117回 §47

官職:正史で李球は羽林右部督として諸葛瞻に従った。演義第117回には彼の官職が出てこない。 正史 蜀書 巻13 §18演義 第117回 §47

死の順序:演義第117回では、まず諸葛瞻が自ら首をはねて死に、諸葛尚が戦死したのち、鄧艾が綿竹を攻めると李球が張遵・黄崇とともに打って出て死ぬ。正史の李恢伝は、李球が諸葛瞻に従って鄧艾を防ぎ、陣に臨んで命を捧げ、綿竹で死んだとだけ記し、鄧艾伝は、鄧忠と師纂が再び戦って大いに破り、諸葛瞻と張遵らの首を斬ったと一度に記す。 演義 第117回 §44–47正史 蜀書 巻13 §18正史 魏書 巻28 §72

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率4545±0
  • 武力4845−3
  • 知力3838±0
  • 政治3533−2
  • 魅力4038−2
  • 徳5862+4
  • 処世3538+3
  • 文芸3333±0
  • 弁舌3533−2
  • 用人3833−5
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

10点以上の差がある項目はありません — 演義も正史とほぼ同じように描いています。

近い項目 10件 — 根拠を見る
  • 統率正45推定演45 ±0

    正直接の記録なし — 羽林右部督として諸葛瞻に従い鄧艾を防いだ記録から推定蜀書 巻13 §18

    演一隊の兵を率いて鄧艾軍に打って出た第117回 §47

  • 武力正48推定演45推定 −3

    正直接の記録なし — 羽林右部督として諸葛瞻に従い鄧艾を防いだ記録から推定蜀書 巻13 §18

    演直接の記録なし — 綿竹で戦死した蜀将という一行から推定第117回 §47

  • 知力正38推定演38推定 ±0

    正直接の記録なし — 羽林右部督として諸葛瞻に従い鄧艾を防いだ記録から推定蜀書 巻13 §18

    演直接の記録なし — 綿竹で戦死した蜀将という一行から推定第117回 §47

  • 政治正35推定演33推定 −2

    正直接の記録なし — 羽林右部督として諸葛瞻に従い鄧艾を防いだ記録から推定蜀書 巻13 §18

    演直接の記録なし — 綿竹で戦死した蜀将という一行から推定第117回 §47

  • 魅力正40推定演38推定 −2

    正直接の記録なし — 羽林右部督として諸葛瞻に従い鄧艾を防いだ記録から推定蜀書 巻13 §18

    演直接の記録なし — 綿竹で戦死した蜀将という一行から推定第117回 §47

  • 徳正58演62 +4

    正諸葛瞻に従って鄧艾を防ぎ、陣に臨んで命を捧げ綿竹で死んだ蜀書 巻13 §18

    演兵が少ないにもかかわらず魏軍と戦って戦死した第117回 §47

  • 処世正35推定演38推定 +3

    正直接の記録なし — 羽林右部督として諸葛瞻に従い鄧艾を防いだ記録から推定蜀書 巻13 §18

    演直接の記録なし — 綿竹で戦死した蜀将という一行から推定第117回 §47

  • 文芸・学術正33推定演33推定 ±0

    正直接の記録なし — 羽林右部督として諸葛瞻に従い鄧艾を防いだ記録から推定蜀書 巻13 §18

    演直接の記録なし — 綿竹で戦死した蜀将という一行から推定第117回 §47

  • 弁舌・外交正35推定演33推定 −2

    正直接の記録なし — 羽林右部督として諸葛瞻に従い鄧艾を防いだ記録から推定蜀書 巻13 §18

    演直接の記録なし — 綿竹で戦死した蜀将という一行から推定第117回 §47

  • 識人・用人正38推定演33推定 −5

    正直接の記録なし — 羽林右部督として諸葛瞻に従い鄧艾を防いだ記録から推定蜀書 巻13 §18

    演直接の記録なし — 綿竹で戦死した蜀将という一行から推定第117回 §47

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(1回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

所属の変遷

  1. 蜀 · 演義 · 演義 第117回 「张遵、黄崇、李球三人,各引一军杀出」 · Q124711574

関連事件(1)

ウィキペディア情報ボックス・原文キーワードの自動照合(推定)を含みます。