正呂乂・杜祺・劉幹を抜擢し、みな高官に至った蜀書 巻11 §10蜀書 巻9 §39
演直接の記録なし — 事績から推定第87回 §5
王連は字を文儀といい、南陽の人である。劉璋の時に蜀に入って梓潼県令となったが、劉備が葭萌で兵を挙げて南へ進軍してくると、城門を閉じて降伏しなかった。劉備は彼を義とし、無理に圧迫しなかった。 正史 蜀書 巻11 §10
成都が平定された後、県令を経て司塩校尉となり、塩と鉄の利益を専売して国の財政を助け、呂乂ら後に高官に至った人々を抜擢した。蜀郡太守・興業将軍を経て建興元年(223)に屯騎校尉となり、丞相長史を兼ね、平陽亭侯に封じられた。諸葛亮の南征を懇切に諫め止めている最中に死んだ。 正史 蜀書 巻11 §10–11
正史を著した陳寿は評で「王連は節を固く守って移さなかった」とした。演義には第87回の一回だけに諫議大夫として登場し、南蛮を自ら征伐しようとする孔明(諸葛亮)を諫め止めるが、名が回目に入ることはない。 正史 蜀書 巻11 §50演義 第87回 §5 · 7
王連は字を文儀といい、南陽の人である。劉璋の時に蜀に入って梓潼県令となった。劉備が葭萌で兵を挙げて南へ進軍してくると、王連は城門を閉じて降伏しなかったが、劉備は彼を義とし、無理に圧迫しなかった。 正史 蜀書 巻11 §10
成都が平定されると、劉備は王連を什邡県令とし、王連は広都県に移ったが、赴任する先々で治績があった。司塩校尉に昇進して塩と鉄の利益を専売すると、収めた利益は非常に多く、国の財政を助けた。王連は優れた人材を選んで属官としたが、呂乂・杜祺・劉幹らはついにみな高官に至り、いずれも王連が抜擢した人々であった。 正史 蜀書 巻11 §10
呂乂伝は、劉備が益州を平定して塩府校尉を置き塩と鉄の利益を管掌させたが、後に校尉王連が呂乂と南陽の杜祺、南郷の劉幹らを推薦し、みな典曹都尉としたと記す。 正史 蜀書 巻9 §39
王連は蜀郡太守・興業将軍に昇進し、塩府は以前どおり統轄した。建興元年(223)に屯騎校尉に任じられて丞相長史を兼ね、平陽亭侯に封じられた。 正史 蜀書 巻11 §11
このころ南方の諸郡が服従しなかったので、諸葛亮は自ら征伐しようとした。王連は「ここは不毛の地、疫病の郷であり、一国の望みを担う方が危険を冒して行かれるのはよろしくありません」と諫めた。諸葛亮は諸将の才が自分に及ばないことを案じて必ず行こうとしたが、王連の言葉がいつも懇切であったため、長く留まっていた。そうするうちに王連が死んだ。陳寿の本文は彼の没年を記していない。子の王山が跡を継ぎ、官は江陽太守に至った。諸葛亮伝によれば、諸葛亮は建興3年(225)の春に軍勢を率いて南征し、その年の秋にすべて平定した。 正史 蜀書 巻11 §11正史 蜀書 巻5 §24
一方、廖立は自分の才能と名声は諸葛亮に次ぐべきだと考えていたが、閑職に回されて李厳らの下に置かれ、つねに不満を抱いていた。丞相掾の李邵と蒋琬が訪ねてくると、廖立は多くの人々をそしり、「王連は俗物で、ひたすら苛酷な取り立てをして民を疲弊させ、今日に至らせた」と言った。 正史 蜀書 巻10 §35 · 37
陳寿は評で、霍峻は孤城を守って傾かず、王連は節を固く守って移さなかったとし、向朗・張裔・楊洪・費詩とともに、みな記録に値するところがあるとした。 正史 蜀書 巻11 §50
演義第87回で、南蛮が服従しないので、孔明(諸葛亮)は参内して自ら大軍を率いて征伐すると上奏する。後主劉禅が呉と魏が攻めてきたらどうするのかと案じると、孔明は李厳・馬超・関興・張苞らで備えたと答え、まず蛮方を平定してから北伐すると言う。 演義 第87回 §3–4
言い終わらないうちに、班列の中から南陽の人で字を文儀という諫議大夫王連が進み出て「なりません」と叫ぶ。王連は、南方は不毛の地で瘴気と疫病の郷であり、国の重任を担う丞相が自ら遠征に出るのはよろしくない、雍闓らは疥癬のような取るに足らない病にすぎないので、大将一人を送るだけで必ず成功すると諫める。 演義 第87回 §5
孔明は、南蛮の地は国から非常に遠く、人々は王化に慣れておらず、剛にするか柔にするかを別に見計らわねばならないので、たやすく人に任せることはできないと答える。王連は再三懇切に諫め止めるが、孔明は従わず、その日のうちに後主に暇乞いをして、蒋琬・費禕・趙雲・魏延らとともに川兵50万を起こして進軍する。 演義 第87回 §6–7
官職:演義第87回で王連は諫議大夫として登場する。正史では建興元年(223)に屯騎校尉に任じられて丞相長史を兼ね、王連伝に諫議大夫は出てこない。 演義 第87回 §5正史 蜀書 巻11 §10–11
諫言の内容:演義第87回で王連は、南方が不毛の地であるという言葉に加えて、雍闓らは取るに足らない病なので大将一人を送るよう勧める。正史で王連は、不毛の地で疫病の郷であり、一国の望みを担う方が危険を冒して行くのはよろしくないと言っただけで、大将を送れという言葉はない。 演義 第87回 §5正史 蜀書 巻11 §11
諫言の結果:演義第87回では、孔明(諸葛亮)は王連の諫言に従わず、その日のうちに出陣する。正史では、王連の言葉がいつも懇切であったため諸葛亮は長く留まり、そうするうちに王連が死んだ。諸葛亮伝で南征は建興3年(225)春のことである。 演義 第87回 §7正史 蜀書 巻11 §11正史 蜀書 巻5 §24
それ以前の事績:演義で王連は第87回の一回だけに登場し、梓潼県令として劉備に降伏しなかったことや、司塩校尉として塩と鉄の利益を専売し呂乂らを抜擢したことは出てこない。正史の王連伝はこれらの事を記している。 演義 第87回 §5正史 蜀書 巻11 §10
死:演義には王連の死が出てこない。正史では南征を諫め止めている最中に死に、子の王山が跡を継いで江陽太守に至った。 演義 第87回 §7正史 蜀書 巻11 §11
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
正呂乂・杜祺・劉幹を抜擢し、みな高官に至った蜀書 巻11 §10蜀書 巻9 §39
演直接の記録なし — 事績から推定第87回 §5
正赴任先ごとに治績があり、塩・鉄の専売で財政を助けた(苛酷だったとの批判もある)蜀書 巻11 §10蜀書 巻10 §37
演直接の記録なし — 諫議大夫の職から推定第87回 §5
正城門を閉じて降伏せず、固い節操と評された(取り立ての批判もある)蜀書 巻11 §10蜀書 巻11 §50蜀書 巻10 §37
演再三懇切に丞相の親征を諫め止めた第87回 §7
正降伏を拒んだが、先主は彼を義として圧迫しなかった蜀書 巻11 §10
演直接の記録なし — 事績から推定第87回 §7
正直接の記録なし — 興業将軍・屯騎校尉の職から推定蜀書 巻11 §11
演直接の記録なし — 諫議大夫という文官であることから推定第87回 §5
正直接の記録なし — 文官であることから推定蜀書 巻11 §10
演直接の記録なし — 文官であることから推定第87回 §5
正不毛と疫病の地だとして諸葛亮の南征を諫め止めた蜀書 巻11 §11
演大将一人を送るだけで雍闓を平定できると見た第87回 §5
正直接の記録なし — 県令・太守の経歴から推定蜀書 巻11 §10
演直接の記録なし — 事績から推定第87回 §5
正直接の記録なし — 官吏としての経歴から推定蜀書 巻11 §10
演直接の記録なし — 諫議大夫の職から推定第87回 §5
正諫言が懇切であったため、諸葛亮は長く出陣を延ばした蜀書 巻11 §11
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。