演義の場面
取長城伯約鏖兵
事件紹介
この場面は演義第112回の回目「取長城伯約鏖兵」の場面で、姜維の北伐のうち、諸葛誕の乱で魏の兵が東に偏った隙をついて姜維が駱谷を通り兵糧の蓄えられた長城を攻めたが、鄧艾父子に阻まれて退くくだりである。演義はこの時を蜀漢の延熙20年(この年に景耀元年と改める)とし、司馬昭が寿春を破って長城を救いに来るとの知らせに姜維が引き返したという。 演義 第112回 §22–23 · 28 · 36–40
陳寿はこの戦いを蜀書巻14姜維伝と巻3後主伝、魏書巻28鄧艾伝に短く記した。姜維伝は、延熙20年(257)姜維が数万人で駱谷を出て沈嶺に至り、司馬望と鄧艾が長城に陣を敷いて対峙し、景耀元年(258)諸葛誕が破れたとの知らせに成都へ帰ったという。 正史 蜀書 巻14 §39–40正史 蜀書 巻3 §37–38正史 魏書 巻28 §66
演義の描写
演義第112回で漢中の姜維は、諸葛誕が司馬昭を討ち、司馬昭が魏主と太后を連れて出征したとの知らせに喜んで出兵を願う。中散大夫譙周は「仇国論」を書いて送り、時を量らずに武力を尽くしてはならないとしたが、姜維は腐れ儒者の論だとして地に投げ捨てる。傅僉が魏の兵糧と馬草はすべて長城にあるとして、駱谷を取り沈嶺を越えてまず長城の兵糧を焼こうと言うと、姜維はまっすぐ長城へ向かう。 演義 第112回 §23–24 · 27–28
長城を守る司馬昭の族兄司馬望は城から20里離れた所に陣を構えて対峙するが、傅僉はわざと隙を見せて王真を生け捕りにして地に投げつけ、追ってくる李鵬を鉄簡で打ち殺す。司馬望が城に入って門を閉ざすと、蜀軍は翌日火矢と火砲を撃ち込んで城上の草葺きの建物を焼く。 演義 第112回 §29–32
城を攻めている最中に背後から魏軍が押し寄せ、二十歳余りの若い将が姜維と30~40合戦い、槍を奪われて退く。彼は鄧艾の子鄧忠で、続いて現れた鄧艾と姜維は翌日の決戦を約して兵を収める。鄧艾は渭水に拠って陣営を築いて関中の兵を待ち、5、6回の戦いの約束にもついに出てこない。姜維が呉の孫綝と力を合わせることを考えていたところ、司馬昭が寿春を破って長城を救いに来るとの知らせが届くと、今回の征伐も画餅となったとして帰る意を決める。 演義 第112回 §33–40
演義と異なる点
「仇国論」:演義第112回で譙周は姜維の出兵を聞いて「仇国論」を書き、姜維に送る。正史譙周伝では、軍がたびたび出て民が疲弊すると、譙周が尚書令陳祗とその利害を論じ、退いて書き記して「仇国論」としたと記し、姜維に送ったという話はない。 演義 第112回 §24正史 蜀書 巻12 §61
長城の戦い:演義第112回では傅僉が魏の将王真を生け捕り李鵬を打ち殺し、蜀軍が長城を焼き、姜維が鄧忠と渡り合う。正史姜維伝では、姜維が芒水に至って山に拠って陣営を築くと、司馬望と鄧艾は渭水のほとりで固く守り、姜維が何度も戦いを挑んでも応じなかったとあり、城を攻めたことや将を斬ったことは記されていない。 演義 第112回 §30–35正史 蜀書 巻14 §40
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