正忠を尽くす臣と称されたが、権力を争って袁尚を立てた魏書 巻10 §29魏書 巻6 §60
逢紀
| 職業 | 正演謀士 | 所属 | |
|---|---|---|---|
| 登場 | 正演 | 収録 | |
| 出生 | 正? 推定 | 出身地 | |
| 死去 | 正202年 推定 | 死去地 | |
| 死因 | 正処刑 演処刑 推定 | ||
| 実在 | 実在 | 言及 | 正11回 |
人物紹介
逢紀は袁紹の臣で、正史には独立した伝がなく、袁紹伝・荀彧伝・郭嘉伝に現れる。袁紹が許を攻めようとしたとき、審配とともに軍事を統括した。袁紹の死後は審配とともに袁尚を立て、袁尚の命で袁譚に従ったが、袁譚に殺された。 正史 魏書 巻6 §49 · 60–61
荀彧は袁紹の臣下たちを評して「逢紀は果断だが独りよがりである」と言った。正史は彼の字と出身を記していない。 正史 魏書 巻10 §30正史 魏書 巻6 §49 · 60–61
演義では第7回に袁紹の謀士として初めて登場し、120回のうち5回に現れるが、回目に名は入らない。袁紹に冀州を奪う計略を出し、獄中の田豊を讒言し、第32回で袁譚に斬られる。郭図は彼を字で呼んで「逢元図」と言う。 演義 第7回 §2–3演義 第31回 §3演義 第32回 §7 · 12
正史の記録
袁紹は易京で公孫瓚を破ってその衆を併せたのち、長子袁譚に青州を、次子袁熙に幽州を、甥の高幹に并州を任せた。兵は数十万に及び、袁紹は審配と逢紀に軍事を統括させ、田豊・荀諶・許攸を謀主、顔良・文醜を将とし、精兵10万と騎兵1万を選りすぐって許を攻めようとした。 正史 魏書 巻6 §49
荀彧伝によれば、孔融は荀彧に「審配と逢紀は忠を尽くす臣としてその事に当たっている」と言って、袁紹に勝つのは難しいとした。荀彧は「審配は独断的で謀がなく、逢紀は果断だが独りよがりである。この二人が残って後事を預かるだろうが、許攸の家が法を犯せば必ず見逃せず、見逃さなければ許攸は必ず変を起こすだろう」と答えた。のちに審配が許攸の家が法を犯したとしてその妻子を捕らえると、許攸は怒って袁紹に背き、荀彧伝はこれが荀彧の見通しどおりであったと記している。 正史 魏書 巻10 §29–30 · 32
袁紹は末子袁尚を愛して後継ぎにしようとしたが、まだ表には出していなかった。審配・逢紀は辛評・郭図と権力を争い、審配と逢紀は袁尚に、辛評と郭図は袁譚についた。袁紹が建安7年(202)に死ぬと、人々は袁譚が長子であるとして彼を立てようとした。しかし審配らは、袁譚が立てば辛評らが自分たちを害するのではないかと恐れ、袁紹の日ごろの意向を口実にして袁尚を奉じて袁紹の地位を継がせた。袁譚は立てられなかったので自ら車騎将軍と称し、これによって袁譚と袁尚の間に溝が生じた。 正史 魏書 巻6 §58 · 60
太祖が北へ袁譚と袁尚を討つと、袁譚は黎陽に駐屯した。袁尚は袁譚にわずかな兵しか与えず、逢紀を付き従わせた。袁譚が兵の増援を求めたが、審配らが協議して与えなかったので、袁譚は怒って逢紀を殺した。武帝紀は、袁紹が建安7年夏5月に死んだのち袁譚が黎陽に駐屯し、その年の秋9月に太祖が彼を攻めたと記している。 正史 魏書 巻6 §61正史 魏書 巻1 §74 · 76
郭嘉伝には、太祖が黎陽で袁譚と袁尚に続けて勝ち、諸将が一気に攻めようとしたとき、郭嘉が「袁紹はこの二人の子を愛して、どちらも後継ぎに立てられなかった。郭図と逢紀が彼らの謀臣となっているので、必ずその間で争わせ、互いに離反することになる」と言って待つよう勧めた言葉が載っている。 正史 魏書 巻14 §36
演義の描写
演義第7回で、河内に駐屯した袁紹が兵糧に事欠き冀州牧韓馥から兵糧を受けると、謀士逢紀は「大丈夫がどうして人が送ってくれる糧を待って食べるのか」と言って冀州を奪うよう勧める。その計略は、公孫瓚にひそかに手紙を送って冀州をともに攻めようと約束させれば、謀のない韓馥が袁紹に州の事を預かってほしいと頼むだろうというものであった。袁紹はこれに従い、冀州に入ると田豊・沮授・許攸・逢紀に州の事を分担させて韓馥の権力を奪う。 演義 第7回 §2–3 · 7
第22回で袁紹が曹操を討とうと兵を起こすとき、審配とともに統軍となる。同じ回で孔融は許攸・郭図・審配・逢紀をみな智謀の士と言い、荀彧は「逢紀は果断だが役に立たない」と評する。 演義 第22回 §9 · 30
第30回で官渡へ出兵しようとするとき、獄中の田豊が書を奉って諫めると、逢紀は「主公が仁義の軍を起こされるのに、なぜこのような不吉な言葉を言うのか」と讒言する。第31回で敗れて帰る途中の袁紹が田豊に合わせる顔がないと言うと、逢紀は田豊が獄中で手を打って大笑いしたと讒言し、袁紹は使者に宝剣を与えて田豊を殺させる。 演義 第30回 §1演義 第31回 §2–3
第31回で袁紹が後継ぎを議すると、審配と逢紀は袁尚の側につき、袁紹は袁尚に審配・逢紀とともに軍事を任せる。第32回で袁紹が血を吐いて危篤になると、劉夫人は審配と逢紀を枕元に呼んで後事を議し、袁紹が死んだのち二人は袁尚を大司馬将軍に立てる。 演義 第31回 §7 · 20演義 第32回 §2 · 5
袁譚の使者として来た郭図が補佐として「審正南と逢元図」を求めると、袁尚は二人にくじを引かせ、当たった逢紀が印綬を持って袁譚の陣営へ行く。袁譚が病気でないのを見た逢紀は不安になって印綬を差し出し、袁譚は彼を斬ろうとするが、郭図の言葉で引き留めておく。袁尚が送った兵5千が途中で全滅すると袁譚は逢紀を責め、逢紀は袁尚に自ら救援に来るよう求める手紙を書く。しかし審配の言葉に従って袁尚が救援軍を送らないと、袁譚はその場で逢紀を斬る。 演義 第32回 §7–9 · 11–12
演義と異なる点
冀州を得た経緯:演義第7回では、逢紀の計略により袁紹が公孫瓚に手紙を送って冀州を攻めさせ、怯えた韓馥が冀州を明け渡す。正史の袁紹伝では、韓馥が安平で公孫瓚に敗れ、公孫瓚が冀州に入ってくると、袁紹が高幹・荀諶らに韓馥を説得させて冀州を明け渡させた。逢紀の計略と袁紹の手紙は現れない。 演義 第7回 §2–3正史 魏書 巻6 §39–40
荀彧の評:演義第22回で荀彧は「逢紀は果断だが役に立たない」と言う。正史の荀彧伝で荀彧は「逢紀は果断だが独りよがりである」と言い、孔融は審配・逢紀を智謀の士ではなく忠を尽くす臣であるとした。 演義 第22回 §30正史 魏書 巻10 §29–30
田豊の死:演義第30~31回では、逢紀が田豊を二度讒言して袁紹に田豊を殺させる。正史の袁紹伝では、袁紹が戻って側近に「田豊の言葉を用いなかったので、案の定笑いものになった」と言って田豊を殺しており、讒言した者の名は現れない。 演義 第30回 §1演義 第31回 §3正史 魏書 巻6 §56–57
袁尚を立てた件:演義第32回では、劉夫人が審配・逢紀を袁紹の枕元に呼び、袁紹がうなずいて袁尚を後継ぎに定める。正史の袁紹伝では、袁紹は袁尚を後継ぎにする意向を表に出さないまま死に、審配らが袁紹の日ごろの意向を口実にして袁尚を立てた。 演義 第32回 §2 · 5正史 魏書 巻6 §60
袁譚のもとへ行った経緯:演義第32回では、郭図が補佐を求めると袁尚がくじを引かせ、逢紀が当たる。正史の袁紹伝は、袁尚が袁譚にわずかな兵しか与えず、逢紀を付き従わせたとだけ記している。 演義 第32回 §7–8正史 魏書 巻6 §61
死んだ理由:演義第32回では、袁尚が送った兵5千が全滅したのち袁尚が救援軍を送らないので、袁譚が逢紀を斬る。正史の袁紹伝では、袁譚が兵の増援を求めたが審配らが協議して与えなかったので、怒って逢紀を殺した。兵5千の全滅と逢紀が書いた手紙は現れない。 演義 第32回 §11–12正史 魏書 巻6 §61
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能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率5245−7
- 武力3131±0
- 知力4858+10
- 政治4542−3
- 魅力3530−5
- 徳4215−27
- 処世3035+5
- 文芸3535±0
- 弁舌3842+4
- 用人3530−5
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
正袁氏の謀臣に数えられたが、独りよがりだと評された魏書 巻14 §36魏書 巻10 §30
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正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。