正人材選抜・郡の廃止・服制改革を論じ、司馬宣王が大いに結構だと言った魏書 巻9 §101魏書 巻9 §111魏書 巻9 §118
演直接の記録なし — 太常の経歴から推定第109回 §26
夏侯玄は字を太初といい、夏侯尚の子で、曹爽のおばの子である。若くして名を知られ、正始年間に曹爽が政治を補佐していた時、散騎常侍・中護軍を経て征西将軍となり、雍州・涼州の軍事を都督した。 正史 魏書 巻9 §98 · 100 · 122
曹爽が処刑されたのち朝廷に呼び戻されて大鴻臚・太常となったが、志を得なかった。嘉平6年(254)、李豊と張緝が彼を大将軍司馬師に代えて立てようとした謀議が露見すると、ともに捕らえられて三族を滅ぼされ、彼自身は東市で斬首された。時に46歳であった。 正史 魏書 巻9 §122–126正史 魏書 巻4 §43
陳寿は評で、彼は規範と度量で名高かったが、曹爽と深く結びついていながらその過ちを正したという話がないのだから、どうして禍を免れられようかと述べた。演義では第107回に雍州を守る曹爽の親族として初めて登場し、全120回のうち3回に登場するが、名が回目に入った回はない。第109回で李豊・張緝とともに曹芳の密詔を受けたが、司馬師に発覚して死ぬ。 正史 魏書 巻9 §132演義 第107回 §31演義 第109回 §26–33
夏侯玄は字を太初という。若くして名を知られ、二十歳で散騎黄門侍郎となった。かつて皇帝に拝謁した際、皇后の弟毛曾と並んで座らされたのを恥じて不快の色を顔に表したので、明帝はこれを恨み、彼を羽林監に左遷した。 正史 魏書 巻9 §100
正始の初め、曹爽が政治を補佐したが、夏侯玄は曹爽のおばの子であった。たびたび昇進して散騎常侍・中護軍となった。衞臻伝によれば、曹爽は夏侯玄を遣わして、衞臻を尚書令に就け、弟の縁組を求めたいという意向を伝えさせたが、衞臻はいずれも受け入れなかった。 正史 魏書 巻9 §100正史 魏書 巻22 §87
太傅司馬懿が当時の政治について問うと、夏侯玄は三つの意見を上った。第一に、人を選んで用いることは台閣が担い、行いの優劣は郷人に任せて互いに干渉させないようにすべきだとし、州郡の中正には行いと同輩間の序列だけを見させ、昇降は行わせないようにしようと言った。第二に、郡守を廃して刺史だけを置き、官職を減らして民の近くに良い官吏を送ろうと言った。第三に、車と服装を質素にし、朝廷の臣下の家から絹の飾りをなくそうと言った。 正史 魏書 巻9 §101–107 · 108–114 · 115–117
司馬懿は返書で、三つともたいへん結構だが、長く受け継がれ慣れ親しんだものなので、賢能の人を待ってはじめて成し遂げられるだろうと述べた。夏侯玄は再び書を上り、漢の文帝は自ら粗い衣を着たが法度を改めなかったとし、宰相が上で制度を定めれば教化は下に行われるのに、「賢能を待つ」と言うのは伊尹と周公が殷と周の典章を正さなかったと言うのと同じで、理解できないと述べた。 正史 魏書 巻9 §118–121
間もなく征西将軍となり、仮節を受けて雍州・涼州の諸軍事を都督した。曹爽とともに駱谷の役を起こしたので、当時の人々は彼を非難した。正始5年(244)、曹爽は長安で兵6〜7万を徴発して駱谷に入ったが、物資を供給できず牛馬が多く死に、敵が山に拠って守ったため進めずに引き返した。郭淮伝は、夏侯玄が蜀を攻めた時、先鋒の郭淮が形勢不利と見て軍を引き抜いたので大敗しなかったと記している。 正史 魏書 巻9 §122 · 74–75正史 魏書 巻26 §72
曹爽が処刑されると、夏侯玄は朝廷に呼ばれて大鴻臚となり、数年後に太常に移った。曹爽との関係のために抑えられ、内心志を得なかった。同じ頃、曹爽に厚遇されていた夏侯覇は曹爽が処刑されたと聞いて身の危険を感じ、蜀へ逃れた。 正史 魏書 巻9 §122 · 27
中書令李豊は以前から大将軍司馬師に信任されていたが、心は夏侯玄にあった。彼は皇后の父である光禄大夫張緝と結んで、夏侯玄に政治を補佐させようと謀った。弟の兗州刺史李翼を入朝させて兵を率いて入らせようとしたが、許されなかった。嘉平6年(254)2月、貴人を冊立する日に天子が殿前に出る時を狙って大将軍を殺し、夏侯玄を代わりに立て、張緝を驃騎将軍にしようとし、黄門監蘇鑠ら宮中の人々にも意を通じた。 正史 魏書 巻9 §122–124正史 魏書 巻4 §43
司馬師はその謀議をかすかに聞きつけ、李豊を呼んでその場で殺した。夏侯玄と張緝らは捕らえられて廷尉に引き渡された。廷尉鍾毓は、李豊らが至尊を脅かし冢宰をほしいままに殺そうとしたのは大逆無道であると上奏し、公卿の議論も、夏侯玄は代々仕える臣の列にありながら禍を企む心を抱いたとして同じ結論を出した。 正史 魏書 巻9 §124–126
李豊・夏侯玄・張緝らはみな三族を滅ぼされ、その他の親族は楽浪郡に移された。夏侯玄は度量が広く大きく、東市で斬首される時にも顔色を変えず、振る舞いは平然としていた。時に46歳であった。正元年間に功臣の家系を継がせるため、夏侯尚の従孫夏侯本を昌陵亭侯に封じ、夏侯尚の祭祀を奉じさせた。 正史 魏書 巻9 §126
陳寿は巻9の評で、曹爽は徳が薄いのに地位が高かったと言い、夏侯玄は規範と度量で世に名を知られたが、曹爽と中外の親族として深く結びついており、あれほど栄えある地位にありながら、その過ちを正したり良い人材を招いたりしたとは聞いたことがないので、どうして禍を免れられただろうかと記した。 正史 魏書 巻9 §132
演義第107回で曹爽の一族を殺した司馬懿は、夏侯玄がまだ雍州などを守っており、曹爽の親族なので急に乱を起こすかもしれないとして、詔を下して征西将軍夏侯玄を洛陽に呼び戻す。これを聞いた夏侯玄の叔父夏侯覇は大いに驚き、本部の兵3千で背いたが、郭淮と陳泰に敗れて漢中へ行き、後主劉禅に降る。 演義 第107回 §31–33
第109回で曹芳は朝会を終えたのち、太常夏侯玄・中書令李豊・光禄大夫張緝だけが残っているのを見て密室に連れて行き、司馬師が自分を子ども扱いすると言って泣く。夏侯玄は、叔父夏侯覇が蜀に降ったのは司馬兄弟に害されるのを恐れたからで、この逆賊を除けば叔父も戻ってくるだろうと言い、自分は国家の旧い姻戚としてともに詔を奉じて討つと奏上する。曹芳は指を噛み切って肌着に血詔を書き、張緝に授ける。 演義 第109回 §26–28
三人は東華門のそばで剣を帯びた司馬師と出くわす。李豊が天子と伊尹・周公の事績を読んでいたと言い繕うと、司馬師は三人の目がまだ赤いと言って密室で泣いたわけを問い詰める。事が漏れたと知った夏侯玄は「お前が威をもって主君を震え上がらせ、簒逆を謀っているからだ」と叱りつけ、拳で司馬師を打とうとして捕らえられる。張緝の身から血詔が見つかると、司馬師は三人を市で腰斬にし、三族を滅ぼさせる。三人は東市に至って歯をすべて打ち折られても最後まで罵り続けて死ぬ。 演義 第109回 §29–33
第110回で毌丘倹の乱を平定して病床に伏した司馬師は、目の痛みが止まないなか、夜ごと李豊・張緝・夏侯玄の三人が寝台の前に立っているのを見る。 演義 第110回 §26
登場範囲:演義は曹爽の処刑後の第107回に初めて夏侯玄を登場させ、若い頃の左遷、司馬懿に上った三つの意見、駱谷の役は扱わない。正史ではこれらの事柄が彼の伝に詳しく載っている。 演義 第107回 §31正史 魏書 巻9 §100–122
召還と夏侯覇:演義第107回では、司馬懿が征西将軍夏侯玄を洛陽に呼び戻すと、叔父夏侯覇が驚いて背き、郭淮と戦う。正史では曹爽が処刑されると夏侯玄を召して大鴻臚としたとだけ記し、夏侯覇は曹爽の処刑を聞いて身の危険を感じ蜀へ逃れた。夏侯玄の召還が夏侯覇を動かしたという話も、郭淮と戦ったという話もない。 演義 第107回 §31–33正史 魏書 巻9 §122 · 27
謀議の始まり:演義第109回では曹芳が密室で三人と泣きながら相談し、血詔を書いて与える。正史では李豊が張緝と結んで夏侯玄に政治を補佐させようと謀ったのであり、天子の血詔や、夏侯玄が謀議に進み出て奏上したという話はない。 演義 第109回 §26–28正史 魏書 巻9 §122–123
発覚:演義第109回では東華門で出くわした司馬師が三人の赤い目を見て問い詰め、張緝の身から血詔を見つけ出す。正史では大将軍司馬師が謀議をかすかに聞きつけて李豊を呼びその場で殺し、夏侯玄らは廷尉に引き渡され、廷尉鍾毓の上奏と公卿の議論を経て処罰された。 演義 第109回 §29–32正史 魏書 巻9 §124–126
死に臨む姿:演義第109回で夏侯玄は司馬師を叱りつけて拳で打とうとし、東市で歯が折れるまで罵り続けて死ぬ。正史では東市で斬首される時に顔色を変えず、振る舞いは平然としていたと記している。 演義 第109回 §31 · 33正史 魏書 巻9 §126
処刑の方法:演義第109回では司馬師が三人を市で腰斬にさせる。正史では東市で斬首されたと記しており、三族を滅ぼしたことは両方で同じである。 演義 第109回 §33正史 魏書 巻9 §126
死後:演義第110回では司馬師が夜ごと夏侯玄ら三人が寝台の前に立つ姿を見る。正史にはそのような話はなく、正元年間に夏侯尚の従孫夏侯本を昌陵亭侯に封じて夏侯尚の祭祀を継がせたと記している。 演義 第110回 §26正史 魏書 巻9 §126
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
正人材選抜・郡の廃止・服制改革を論じ、司馬宣王が大いに結構だと言った魏書 巻9 §101魏書 巻9 §111魏書 巻9 §118
演直接の記録なし — 太常の経歴から推定第109回 §26
正経典と古制を引いて官制・服制を論じた書を上った魏書 巻9 §108魏書 巻9 §115
演直接の記録なし — 太常の経歴から推定第109回 §26
正司馬宣王の返書に再び反論して改革を主張した魏書 巻9 §120魏書 巻9 §121
演直接の記録なし — 司馬師の前での言動から推定第109回 §31
正若くして名を知られ、李豊の心は彼にあった。評:世にその名が称えられた魏書 巻9 §100魏書 巻9 §122魏書 巻9 §132
演直接の記録なし — 皇帝の側近であった記録から推定第109回 §26
正斬首される時も平然としていた。評:曹爽の過ちを正したという話がない魏書 巻9 §126魏書 巻9 §132
正征西将軍として雍・涼州を都督したが、駱谷の役で非難された魏書 巻9 §122
演直接の記録なし — 征西将軍として雍州を守った記録から推定第107回 §31
正直接の記録なし — 文官としての経歴から推定魏書 巻9 §100
演拳を握って司馬師を打とうとしたが、武士に捕らえられた第109回 §31
正直接の記録なし — 時政の議論と連座した謀議から推定魏書 巻9 §101魏書 巻9 §122
演直接の記録なし — 密詔の謀議に加わった記録から推定第109回 §27
正不快の色を表して左遷され、ついには連座した。評:禍を免れられなかった魏書 巻9 §100魏書 巻9 §122魏書 巻9 §132
演事が漏れると大声で叱りつけ、自ら捕らえられた第109回 §31
正選抜制度を論じたが、評:良い人材を招いたという話はない魏書 巻9 §101魏書 巻9 §132
演直接の記録なし — 朝廷での経歴から推定第109回 §26
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。