正直接の記録なし — 晋の車騎将軍の職から推定呉書 巻13 §72
羊祜
人物紹介
羊祜は晋の車騎将軍である。陳寿の本文には独立した伝がなく、呉書の歩騭伝と陸遜伝に呉と対峙した晋の将として登場する。呉の鳳皇元年(272)、西陵督歩闡が晋に降ると、晋は羊祜と荊州刺史楊肇に歩闡を救援させた。 正史 呉書 巻7 §87–88正史 呉書 巻13 §70 · 72
羊祜は軍を率いて江陵に向かったが、陸抗が堰を壊したため兵糧の輸送に多大な費用と労力を費やし、楊肇が大敗すると軍を率いて引き返した。陳寿の本文は羊祜の字と出身、死を記さない。 正史 呉書 巻13 §72–73 · 75
演義では第120回にのみ登場し、全120回のうち1回に登場する。名が回目に入った回はないが、回目「杜預を薦めて老将は新謀を献じ」の老将が彼である。演義は、彼が襄陽を守って陸抗と酒や薬を贈り合い、呉を討つよう願い出て、咸寧4年(278)に病で死ぬ前に杜預を推薦する姿を描く。 演義 第120回 §10 · 16–17 · 21–22 · 24–25
正史の記録
歩騭伝によれば、呉の西陵督歩闡は鳳皇元年(272)に繞帳督として召されることになると、代々西陵にいた自分が職を失うと考え、また讒言の禍を恐れて、城に拠って晋に降り、歩璣とその弟歩璿を洛陽に人質として送った。晋は歩闡を都督西陵諸軍事・衛将軍とし、車騎将軍羊祜と荊州刺史楊肇に命じて歩闡の救援に向かわせた。孫皓が陸抗を西へ遣わすと羊祜らは逃げ退き、陸抗は城を陥落させて歩闡らを斬った。 正史 呉書 巻7 §87–88
陸遜伝に載る陸抗の記録によれば、陸抗は歩闡の背反を聞くとその日のうちに諸将を西陵に送り、赤谿から故市まで包囲陣を築かせて、内は歩闡を囲み外は敵を防がせた。包囲と防備が整った時、晋の車騎将軍羊祜が軍を率いて江陵に向かった。諸将はみな陸抗が上流へ行くべきではないと言ったが、陸抗は、江陵は城が堅く兵も十分であるから、むしろ江陵を捨てて西陵へ向かうと言った。 正史 呉書 巻13 §70 · 72
はじめ江陵は土地が平らで道が通じていたので、陸抗は江陵督張咸に大きな堰を築いて水をせき止めさせ、敵と反乱者を断っていた。羊祜はせき止められた水を利用して船を浮かべ兵糧を運ぼうとしながら、堰を壊して歩兵を通すと言いふらした。陸抗はこれを聞くと張咸に急いで堰を壊させた。羊祜は当陽に至って堰が壊れたと聞き、船の代わりに車で運ぶことになって、多大な費用と労力を費やした。 正史 呉書 巻13 §73
晋の巴東監軍徐胤は水軍を率いて建平に向かい、荊州刺史楊肇は西陵に至った。陸抗は張咸に江陵城を固守させ、公安督孫遵に南岸を巡回させて羊祜を防がせ、自らは包囲陣に拠って楊肇と対峙した。楊肇はひと月たつと策が尽きて夜に逃げて大敗し、羊祜らもみな軍を率いて引き返した。陸抗はついに西陵城を陥落させ、歩闡の一族を誅殺した。 正史 呉書 巻13 §74–76
陳寿の本文で羊祜が登場するのはこの西陵の戦いだけであり、羊祜の字と出身、その後の事績と死は記されていない。 正史 呉書 巻7 §88正史 呉書 巻13 §72–75
演義の描写
演義第120回で、孫皓が鎮東将軍陸抗を江口に駐屯させて襄陽を狙わせると、賈充は晋主司馬炎に、都督羊祜に詔を下してこれを防がせ、呉の国内に変事が起こるのを待って攻めるよう奏上する。羊祜は詔を奉じて襄陽を守り、将兵と民の心を大いに得る。演義は、彼が降ってきたのち去ろうとする呉の人をみな行かせ、守備の兵卒を減らして田800余頃を開墾し、はじめは百日分の兵糧もなかった軍中に、晩年には10年分の蓄えを置いたとする。軍中では軽い皮衣に幅広の帯を締めて鎧を着けず、幕舎の前の護衛は十数人にすぎなかった。 演義 第120回 §9–11
部将が呉軍がたるんでいるので奇襲しようと言うと、羊祜は笑って、陸抗は智略に富み計略が多い人物で、先ごろ西陵を攻めて歩闡とその将兵数十人を斬ったが、自分は救援に向かっても間に合わなかったと言う。そのような人物が将である以上、自ら守りを固めて呉の国内に変事が起こるのを待つべきだという彼の言葉に、諸将は感服する。 演義 第120回 §11–12
狩りで出会った時、羊祜は兵に境を越えさせず、呉の人が先に射止めた獣をすべて送り返す。陸抗が返礼に酒を贈ると、部将陳元は謀略を心配するが、羊祜は陸抗は人を毒殺する者ではないとして壺を傾けて飲む。陸抗が病に伏したと聞くと自ら調合しておいた薬を送り、陸抗は「人を毒殺する羊叔子などいるものか」と言ってその薬を飲み、治る。 演義 第120回 §13–14 · 16–18
陸抗が晋は討てないと上疏して孫皓に兵権を奪われると、羊祜は呉に乗じる隙があると見て、呉を討つよう上表する。長江・淮水の険は剣閣に及ばず、孫皓の暴虐は劉禅を上回り、呉の人々の困窮は巴蜀よりひどいというのである。司馬炎は喜ぶが、賈充・荀顗・馮紞が強く反対したため実行されず、羊祜は天下に思いどおりにならないことは常に十のうち八、九であると嘆く。 演義 第120回 §19–22
咸寧4年(278)、羊祜は入朝して故郷に帰り病を養いたいと奏上し、孫皓の暴虐がひどい今なら戦わずに勝てるが、孫皓が死んで賢君が立てば呉は得られないと言う。その年の11月に病が重くなると司馬炎が自ら見舞い、羊祜は右将軍杜預を推薦する。人を推薦しながら上奏の草稿を焼くわけを問われると、官職は公の朝廷で授かり恩には私の門で謝するようなことは取らないと答え、世を去る。 演義 第120回 §22–25
司馬炎は太傅と巨平侯を追贈し、南方の民は市を閉じて慟哭する。襄陽の人々は羊祜がいつも遊んだ峴山に廟と碑を建て、その碑文を見た者はみな涙を流したので、堕涙碑と呼ばれたという。晋主は羊祜の言葉どおり杜預を鎮南大将軍・都督荊州事とし、のちに王濬の呉征伐の上疏を見ると、羊都督の考えとひそかに一致するとして意を決する。 演義 第120回 §25–26 · 28 · 30
演義と異なる点
肩書と地位:演義第120回は羊祜を襄陽を守る「都督」と呼ぶ。陳寿の本文で羊祜は晋の車騎将軍として登場し、襄陽を守ったという記述はない。 演義 第120回 §10正史 呉書 巻13 §72正史 呉書 巻7 §88
対峙のきっかけ:演義第120回では、孫皓が陸抗を江口に駐屯させて襄陽を狙うと、賈充の進言で羊祜が防ぎに出る。陳寿の本文では、鳳皇元年(272)に西陵督歩闡が晋に降ると、晋は車騎将軍羊祜と荊州刺史楊肇に歩闡を救援させる。 演義 第120回 §9–10正史 呉書 巻7 §87–88
西陵の戦い:演義第120回で羊祜は、陸抗が西陵を攻めて歩闡を斬った時、救援に向かっても間に合わなかったと言うだけである。陸遜伝では、羊祜は軍を率いて江陵に向かったが、陸抗が堰を壊したため当陽から船の代わりに車で兵糧を運ぶことになって大いに浪費し、楊肇が大敗すると軍を率いて引き返した。 演義 第120回 §12正史 呉書 巻13 §72–75
陸抗と贈り合った酒と薬:演義第120回では、羊祜と陸抗が狩りで境を守り、酒と薬を贈り合う。陳寿の本文の陸抗の記録にはこの件はない。 演義 第120回 §13–18正史 呉書 巻13 §70–76
呉征伐の上表と杜預の推薦:演義第120回で羊祜は呉を討つよう上表し、死ぬ前に杜預を推薦する。陳寿の本文には羊祜の上表も推薦も出てこない。 演義 第120回 §21 · 24正史 呉書 巻7 §88正史 呉書 巻13 §72–75
死:演義第120回は、羊祜が咸寧4年(278)11月に病で死んで太傅と巨平侯を追贈され、襄陽の人々が峴山に堕涙碑を建てたとする。陳寿の本文は羊祜の死を記さない。 演義 第120回 §22 · 24–26正史 呉書 巻7 §88正史 呉書 巻13 §72–75
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率4572+27
- 武力3835−3
- 知力4084+44
- 政治4580+35
- 魅力4288+46
- 徳4588+43
- 処世4560+15
- 文芸4045+5
- 弁舌4068+28
- 用人4082+42
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
正堰を壊すと言いふらしたが、陸抗に見抜かれて輸送に浪費した呉書 巻13 §73
正直接の記録なし — 呉側の記録のみから推定呉書 巻13 §72
正直接の記録なし — 将の職から推定呉書 巻13 §72
正直接の記録なし — 兵糧輸送の計画から推定呉書 巻13 §73
演田八百余頃を開墾し、百日分の兵糧を十年分の蓄えにした第120回 §11
正直接の記録なし — 将の職から推定呉書 巻13 §72
正歩闡の救援に向かったが、陸抗が来ると退いた呉書 巻7 §88呉書 巻13 §72
近い項目 2件 — 根拠を見る
正直接の記録なし — 車騎将軍の職から推定呉書 巻13 §72
演直接の記録なし — 鎧を着けない都督であることから推定第120回 §11
正直接の記録なし — 将の職から推定呉書 巻13 §72
演直接の記録なし — 都督としての事績から推定第120回 §11
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。