王忠
人物紹介
王忠は、曹操が徐州の劉備を討たせるために送った将である。正史には独立した伝がなく、魏書巻1武帝紀と巻6董二袁劉伝の袁紹の記録、蜀書巻2先主伝に、同じ事件で一度ずつ名が見える。劉備が徐州刺史車胄を殺して沛に駐屯すると、曹操が劉岱と王忠を送って攻めさせたが勝てなかったという内容である。陳寿の本文は彼の字と出身、官職、生没年を記していない。 正史 魏書 巻1 §56正史 魏書 巻6 §50正史 蜀書 巻2 §16
三巻の評には王忠の名はない。演義では第22回に曹操の後軍として初めて登場し、120回のうち2回に登場し、第22回の回目「関張 共に王劉二将を擒う」にその名が見える。丞相の旗を偽って掲げて徐州へ向かうが関羽に捕らえられて放され、第23回で曹操に死を免じられる代わりに爵位と俸禄を失う。 正史 魏書 巻1 §173正史 魏書 巻6 §96正史 蜀書 巻2 §78演義 第22回 §31 · 39演義 第23回 §1
正史の記録
武帝紀によれば、袁術が下邳を経て北へ通り抜けようとすると、曹操は劉備と朱霊を送って遮らせたが、ちょうど袁術が病死した。程昱と郭嘉が劉備を放ってはならないと言うと、曹操は後悔して追わせたが間に合わなかった。劉備は東へ行く前にひそかに董承らと反逆を謀っており、下邳に着くと徐州刺史車胄を殺し、兵を挙げて沛県に駐屯した。曹操は劉岱と王忠を送って攻めさせたが勝てなかった。武帝紀はこの事件を、建安4年(199)12月に曹操が官渡に駐屯した記事の後に記している。 正史 魏書 巻1 §55–56
先主伝は同じ事件を次のように記す。劉備は下邳を占拠し、朱霊らが帰ると徐州刺史車胄を殺した後、関羽を残して下邳を守らせ、自身は小沛に戻った。東海の昌霸(昌豨)が反乱を起こすと、曹操に背いて劉備についた郡県が多く、軍勢は数万人に達し、劉備は孫乾を送って袁紹と手を結んだ。曹操は劉岱と王忠を送って攻めさせたが勝てなかった。建安5年(200)に曹操が自ら東へ劉備を征伐すると、劉備は大敗した。 正史 蜀書 巻2 §16
袁紹の記録には、劉備が車胄を殺して兵を率いて沛に駐屯すると袁紹が騎兵を送って彼を助け、太祖が劉岱と王忠を送って攻めさせたが勝てなかったとある。建安5年(200)に太祖が自ら東へ劉備を討つと、田豊は袁紹に太祖の背後を襲うよう勧めたが、袁紹は子の病を理由に許さなかった。太祖が劉備を破ると、劉備は袁紹のもとへ逃げた。 正史 魏書 巻6 §50
三つの記録はいずれも王忠を劉岱と並べて一度記すだけで、陳寿の本文は彼の字と出身、官職、この戦いの後のことと死を記していない。三巻末尾の評にも彼の名はない。 正史 魏書 巻1 §56 · 173正史 魏書 巻6 §50 · 96正史 蜀書 巻2 §16 · 78
演義の描写
演義第22回で曹操は自ら大軍二十万を率いて黎陽へ進み袁紹を防ぎつつ、前軍劉岱と後軍王忠を呼んで兵五万を率い、丞相の旗を掲げて徐州の劉備を討たせる。程昱が二人では務まらないのではと心配すると、曹操は彼らが劉備の敵ではないと知っているが、しばらく虚勢を張ってみるだけだと言い、軽々しく進まないよう言いつける。 演義 第22回 §31–32
二人は徐州から百里離れた所に陣を構え、中軍に「曹丞相」の旗を偽って掲げたが、あえて進まず河北の様子ばかりうかがう。曹操が戦いを催促すると、劉岱は主将である自分がどうして先に行けようかとくじを引こうと言い、王忠が「先」と書かれたくじを引いて軍馬の半分を分けて徐州を攻めに行く。 演義 第22回 §34–35
劉備は陳登と相談して曹操はここにいないと見抜き、関羽が兵三千を率いて出る。雪の舞う初冬、関羽が丞相に陣の前へ出てこいと言うと、王忠は丞相がどうして軽々しくお前に会ってくださるものかと言い、槍をしごいて迎え撃つ。関羽が馬首を返して逃げ、山の斜面を回ってから引き返して襲いかかると、王忠は防ぎきれず逃げようとしたところを鎧の紐をつかまれて鞍から引きずり下ろされ、関羽の馬の上に横ざまに担がれて捕らえられる。 演義 第22回 §36–39
劉備の前に引き出された王忠は、虚勢を張って敵を惑わせよとの命を受けただけで、丞相は実際にはここにいないと打ち明ける。劉備は彼に衣服と酒食を与えて閉じ込めておき、このような者は殺しても益がなく、生かしておけば和解の足がかりになると言う。張飛が劉岱を捕らえてくると、劉備は王忠も放して共にもてなし、許都に行って弁明してほしいと頼み、二人は両家の老人と子どもをかけて保証すると言う。 演義 第22回 §40–41 · 47–48
帰り道で十余里も行かないうちに張飛が道をふさぐと二人は馬上で震え上がり、関羽が張飛を止めると、丞相に三族を滅ぼされても二度と来ないと詫びて、頭を抱えて逃げ去る。曹操は劉備は謀反していないと報告する二人を国を辱めた輩だとして斬れと命じるが、第23回で孔融が、二人はもともと劉備の敵ではなく、斬れば将兵の心を失うおそれがあると諫めると、死を免じて爵位と俸禄を取り上げる。 演義 第22回 §49–52演義 第23回 §1
演義と異なる点
出陣の形勢:演義第22回では、曹操が袁紹を防ぐために黎陽へ向かいつつ、劉岱と王忠に兵五万と丞相の旗を与えて虚勢を張らせて徐州に送る。正史の武帝紀・先主伝・袁紹の記録は、劉備が車胄を殺して沛に駐屯すると曹操が劉岱と王忠を送ったと記すだけで、兵の数と丞相の旗は記さない。 演義 第22回 §31–32正史 魏書 巻1 §56正史 蜀書 巻2 §16正史 魏書 巻6 §50
戦いの結果:演義第22回では王忠は関羽に、劉岱は張飛に捕らえられる。正史の三つの記録はいずれも「勝てなかった」と記すだけで、二人が捕らえられたという話はない。 演義 第22回 §39 · 45正史 魏書 巻1 §56正史 蜀書 巻2 §16正史 魏書 巻6 §50
関羽の居場所:演義第22回で関羽は徐州から兵三千を率いて出て王忠を捕らえ、その後で孫乾の言に従って下邳を守りに行く。正史の先主伝では、劉備が車胄を殺した後に関羽を残して下邳を守らせ、自身は小沛に戻っており、その次に曹操が劉岱と王忠を送る。 演義 第22回 §37–39 · 51正史 蜀書 巻2 §16
釈放:演義第22回で劉備は王忠と劉岱を放してもてなし、弁明を頼み、帰り道を張飛がふさぐ。正史には劉備が二人を放したという記録も、張飛が登場する場面もない。 演義 第22回 §47–50正史 魏書 巻1 §56正史 蜀書 巻2 §16正史 魏書 巻6 §50
帰還後:演義第23回で曹操は二人を斬ろうとするが、孔融の諫言で死を免じ、爵位と俸禄を取り上げる。陳寿の本文は敗れた後に王忠がどうなったかを記していない。 演義 第23回 §1正史 魏書 巻1 §56正史 蜀書 巻2 §16正史 魏書 巻6 §50
袁紹の動き:演義第22回で袁紹は黎陽に兵を置き、謀臣たちが和合せず進まない。正史の袁紹の記録では、劉備が沛に駐屯すると袁紹が騎兵を送って劉備を助け、その後で曹操が劉岱と王忠を送る。 演義 第22回 §33 · 36正史 魏書 巻6 §50
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能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率3525−10
- 武力4025−15
- 知力3530−5
- 政治3533−2
- 魅力3535±0
- 徳4250+8
- 処世4025−15
- 文芸3131±0
- 弁舌3332−1
- 用人3331−2
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
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正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。