正直接の記録なし — 楽安太守の官職から推定呉書 巻19 §30
演直接の記録なし — 魏の将としての役割から推定第108回 §13
桓嘉は魏の尚書令桓階の子である。桓階が死ぬと跡を継ぎ、升遷亭公主を娶った。嘉平年間に楽安太守として東関で呉と戦ったが、軍が敗れて死に、諡は壮侯である。呉書の三嗣主伝と諸葛恪の伝は、この戦いを呉の建興元年、すなわち魏の嘉平4年12月の東興の戦いとして記しており、陰暦12月であるため西暦では253年初めにあたる。 正史 魏書 巻22 §8–9正史 呉書 巻3 §3–5正史 呉書 巻19 §28 · 31
正史には独立した伝がなく、魏書巻22の桓階伝の末尾と呉書巻3・巻19に名が見える。演義には第108回にのみ登場し、回目に名が見える回はない。演義は彼を、東興で胡遵の命により韓綜とともに二つの城を攻め、丁奉に討たれる魏の将として描く。 正史 魏書 巻22 §9正史 呉書 巻3 §5正史 呉書 巻19 §30演義 第108回 §13 · 16–17
桓階は長沙郡臨湘県の人である。文帝が即位すると尚書令となって高郷亭侯に封じられ、病にかかると安楽郷侯に移封されて食邑は600戸となった。皇帝はまた桓階の三人の子に関内侯の爵位を与えたが、跡継ぎと定められた子の桓祐は封じられず、病死すると関内侯を追贈された。桓階が死ぬと、皇帝は涙を流し、諡を貞侯とした。 正史 魏書 巻22 §2 · 8
陳寿は桓階伝の末尾に、子の桓嘉が跡を継ぎ、桓階の弟桓纂が散騎侍郎となって関内侯の爵位を賜ったと記した。桓嘉は升遷亭公主を娶った。嘉平年間に楽安太守として東関で呉と戦ったが、軍が敗れて死んだ。諡を壮侯といい、子の桓翊が跡を継いだ。陳寿の本文は桓嘉の字と年齢を記しておらず、巻22の評にも彼は登場しない。 正史 魏書 巻22 §9 · 108
呉書巻3の三嗣主伝によれば、孫権が死んだ年は魏の嘉平4年である。その年の冬10月、呉の太傅諸葛恪は軍を率いて巣湖をせき止め、東興に城を築いて、将軍全端に西の城を、都尉留略に東の城を守らせた。12月、魏は将軍諸葛誕・胡遵らに歩騎7万を与えて東興を包囲させた。甲寅の日に諸葛恪が大軍を率いて敵に向かい、戊午の日に東興で交戦して魏軍を大破し、将軍韓綜・桓嘉らを殺した。この月の朔日が丙申の日であるから、戊午の日は西暦253年初めである。 正史 呉書 巻3 §3–5
呉書巻19の諸葛恪伝は、この戦いをさらに詳しく記す。胡遵らは諸軍に浮橋を作って渡らせ、堤の上に陣を敷いたのち兵を分けて二つの城を攻めたが、城が高く険しく、にわかには落とせなかった。諸葛恪は将軍留賛・呂拠・唐咨・丁奉を先鋒として送った。寒く雪が降っていたが、魏の諸将は集まって酒を飲んでいて、呉の兵が少ないうえ、鎧を脱いで裸で堤をよじ登るのを見て大笑いし、すぐには兵を整えなかった。 正史 呉書 巻19 §28–29
呉の兵が堤に登ると、太鼓を打ち鬨の声を上げて手当たり次第に斬りつけた。魏軍は驚いて散り散りに逃げ、先を争って浮橋を渡ろうとしたが、橋が壊れて断ち切れると、自ら水に飛び込み、互いに踏みつけ合った。楽安太守桓嘉らが一度にみな死に、死者は数万に上った。 正史 呉書 巻19 §30
演義第108回で孫権が死ぬと、司馬師は呉を討つことに決め、王昶・胡遵・毌丘倹にそれぞれ兵10万を与えて南郡・東興・武昌の三路から進ませ、弟の司馬昭を大都督とする。その年の冬12月、司馬昭は胡遵を先鋒とし、まず浮橋を架けて東興の大堤を奪わせる。 演義 第108回 §7–10
胡遵は浮橋を渡って堤の上に兵を駐屯させ、桓嘉と韓綜を送って二つの城を攻めさせる。左の城は呉将全端が、右の城は呉将留略が守っており、城は高く険しく堅固で、急いで攻めても落とせない。全端と留略は出て戦わずに城を死守し、胡遵は徐塘に陣を構えたのち、大雪の降る真冬に諸将と酒宴を開く。 演義 第108回 §13
丁奉が兵たちに鎧と兜を脱がせて短刀だけを帯びさせると、魏軍は大笑いして備えをしない。連珠砲の音が三度響くと、丁奉が先頭に立って岸に跳び上がり、呉軍が魏の陣に斬り込み、韓綜は丁奉の刀に斬り倒される。 演義 第108回 §15–16
桓嘉は左から回り出て、慌てて槍を取って丁奉を突くが、丁奉は槍の柄を脇に挟んで押さえる。桓嘉が槍を捨てて逃げると、丁奉は刀を一振り投げつけてその左肩に命中させ、仰向けに倒れた彼を追いかけて、その槍で突き刺す。胡遵は血路を開いて逃げ、魏軍は切れた浮橋で大半が水に落ちて死ぬ。 演義 第108回 §16–17
身分:演義第108回は桓嘉を胡遵配下の魏の将としてのみ登場させ、桓階の子であることや公主を娶ったこと、楽安太守であったことは記さない。正史で桓嘉は桓階の跡を継ぎ、升遷亭公主を娶り、楽安太守として戦って死んだ。 演義 第108回 §13正史 魏書 巻22 §9正史 呉書 巻19 §30
戦った場所の名:演義第108回はこの戦いを東興の戦いとして描く。正史でも呉書の三嗣主伝は東興と記すが、魏書の桓階伝は桓嘉が東関で呉と戦ったと記す。 演義 第108回 §9 · 13正史 呉書 巻3 §5正史 魏書 巻22 §9
任された役目:演義第108回では胡遵が桓嘉と韓綜を送って二つの城を攻めさせる。正史の呉書巻19は胡遵らが兵を分けて二つの城を攻めたとするだけで、城を攻めた将の名は記さない。 演義 第108回 §13正史 呉書 巻19 §29
死にざま:演義第108回で桓嘉は丁奉を槍で突くが槍をつかまれ、逃げるところを丁奉が投げた刀に左肩を打たれて倒れたのち、その槍で突き刺される。正史の諸葛恪の伝は、魏軍が先を争って浮橋を渡るうちに橋が壊れて水に落ち、互いに踏みつけ合うなかで楽安太守桓嘉らが一度にみな死んだと記すだけで、誰が彼を殺したかは明らかにしない。丁奉伝も、丁奉が敵の前方の屯営を大破したとするのみである。 演義 第108回 §16–17正史 呉書 巻19 §30正史 呉書 巻10 §101
死後:演義には桓嘉の死後のことは出てこない。正史の桓階伝は、彼の諡を壮侯とし、子の桓翊が跡を継いだと記す。 演義 第108回 §16–17正史 魏書 巻22 §9
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正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
正直接の記録なし — 楽安太守の官職から推定呉書 巻19 §30
演直接の記録なし — 魏の将としての役割から推定第108回 §13
正東興の戦いに魏の将として参戦し戦死呉書 巻3 §5呉書 巻19 §30
演韓綜とともに二つの城を攻めたが落とせなかった第108回 §13
正直接の記録なし — 楽安太守・将軍としての役割から推定呉書 巻19 §30
演丁奉を槍で突いたがつかまれ、逃げるところを刀に打たれた第108回 §16
正直接の記録なし — 楽安太守・将軍としての役割から推定呉書 巻19 §30
演直接の記録なし — 魏の将としての役割から推定第108回 §13
正直接の記録なし — 楽安太守・将軍としての役割から推定呉書 巻19 §30
演直接の記録なし — 魏の将としての役割から推定第108回 §13
正直接の記録なし — 楽安太守・将軍としての役割から推定呉書 巻19 §30
演直接の記録なし — 魏の将としての役割から推定第108回 §13
正直接の記録なし — 楽安太守・将軍としての役割から推定呉書 巻19 §30
演直接の記録なし — 魏の将としての役割から推定第108回 §13
正直接の記録なし — 楽安太守・将軍としての役割から推定呉書 巻19 §30
演直接の記録なし — 魏の将としての役割から推定第108回 §13
正直接の記録なし — 楽安太守・将軍としての役割から推定呉書 巻19 §30
演直接の記録なし — 魏の将としての役割から推定第108回 §13
正直接の記録なし — 楽安太守・将軍としての役割から推定呉書 巻19 §30
演直接の記録なし — 魏の将としての役割から推定第108回 §13
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。