文鴦

正史演義 魏 Wen Yang문앙문숙아앙文淑阿鴦文鸯阿鸯

プロフィール
職業正武将 · 将軍 演武将 · 偏将軍所属魏
登場正演収録
出生演238年 推定出身地譙郡 推定
死去演? 推定死去地
死因正処刑 推定
実在実在言及正3回

人物紹介

文鴦は文欽の子である。陳寿の本文には独立した伝がなく、魏書巻28諸葛誕伝に文虎とともに名が見える。甘露3年(258)正月、寿春城内で父の文欽が諸葛誕に殺されると、小城で兵を率いていた文鴦と文虎は駆けつけたが、兵たちが従わず、二人だけで城壁を越えて大将軍司馬昭に帰順した。 正史 魏書 巻28 §37 · 40正史 呉書 巻3 §18

大将軍は誅殺を求める軍吏の請いを退けて二人を赦し、城の周りを巡って城内に呼びかけさせ、上表して将軍とし、関内侯の爵位を与えた。寿春が平定された後には、文欽の遺体を収めて旧墓に葬ることを許された。 正史 魏書 巻28 §40–41 · 47

陳寿の本文は彼の字やその後の事績、死を記しておらず、巻28の評にも彼は登場しない。演義では第110回で文欽が「幼名を阿鴦という次男の文淑」と紹介する場面で初めて登場し、全120回のうち3回に現れる。第110回の回目は「文鴦は単騎にて雄兵を退け」で始まる。 正史 魏書 巻28 §40–47 · 140演義 第110回 §3 · 19–20

正史の記録

陳寿の本文は、正元2年(255)正月、文欽が毌丘倹とともに大将軍司馬景王(司馬師)に対して兵を挙げ、楽嘉で夜に鄧艾らを襲おうとしたが、夜が明けて大軍の兵馬が盛んなのを見て軍を返し、追ってきた精鋭の騎兵に大敗して呉へ逃れたと記す。この戦いを記した毌丘倹伝と三少帝紀には文鴦の名は出てこない。 正史 魏書 巻28 §20–21 · 23–24 · 27正史 魏書 巻4 §54

甘露2年(257)5月、諸葛誕が寿春で反乱して呉に救援を求めると、呉は全懌・全端・唐咨・王祚らに3万人を与え、ひそかに文欽とともに来させた。鎮南将軍王基の包囲がまだ閉じていない隙に、唐咨・文欽らは城の東北から山に沿い険しい地形に乗じて城内に入った。大将軍司馬文王(司馬昭)が中央と地方の軍26万人で内外二重の包囲を敷くと、文欽らは何度も出撃して包囲網を突いたが、そのたびに撃退された。 正史 魏書 巻28 §35–37

甘露3年(258)正月、諸葛誕・文欽・唐咨らは昼夜5、6日にわたって南の包囲網を攻めたが、攻城具を焼き壊されて城内に戻った。食糧が尽きると、文欽は北方の人をすべて城外に出して食糧を節約し、呉の人々とともに固く守ろうと言ったが、諸葛誕は聞き入れず、互いに争い恨み合った。もともと不和であった二人は事態が切迫するほど互いに疑いを深め、文欽が諸葛誕に会って事を相談すると、諸葛誕はついに文欽を殺した。 正史 魏書 巻28 §39–40正史 呉書 巻3 §18

文欽の子の文鴦と文虎は兵を率いて小城の中にいたが、文欽が死んだと聞くと兵を整えて駆けつけたものの、兵たちは従わなかった。二人は単身で逃れ、城壁を越えて出て、自ら大将軍に帰順した。軍吏が二人を誅殺するよう請うと、大将軍は令を下し、文欽の罪は死をもってしても償えず、その子らは当然誅すべきであるが、文鴦と文虎は窮して命を預けに来たのであり、しかも城はまだ落ちていないので、二人を殺せば城内の人々の心を固めるだけだと述べた。 正史 魏書 巻28 §40

そこで二人を赦し、騎兵数百を率いて城の周りを駆け巡り、城内に「文欽の子でさえ殺されなかったのだから、ほかの者が何を恐れることがあろうか」と呼びかけさせた。そして上表して文鴦と文虎を将軍とし、それぞれ関内侯の爵位を与えた。城内の人々は喜びつつも動揺し、日ごとに飢えと疲れが募り、諸葛誕・唐咨らは知恵も力も尽きた。大将軍が自ら包囲の陣に臨み四方から軍を進めると、城内には動こうとする者がなく、小城門から突破して出た諸葛誕は大将軍司馬胡奮の部隊に斬られた。諸葛誕伝は、彼が甘露2年5月に反乱し、3年2月に撃破されたと記す。 正史 魏書 巻28 §41–43

寿春が平定された後、淮南の将吏・兵士・民のうち諸葛誕に脅されたり連れ去られたりした者は、首謀者だけが誅され、残りはみな赦された。文鴦と文虎は文欽の遺体を収めることを許され、車と牛を与えられて旧墓に葬った。 正史 魏書 巻28 §47

陳寿の本文で文鴦が登場するのはこの3か所だけである。彼の字と出身、その後の事績と死は記されておらず、王淩・毌丘倹・諸葛誕・鍾会・鄧艾を評した巻28の評にも彼は登場しない。 正史 魏書 巻28 §40–41 · 47 · 140

演義の描写

演義第110回では、正元2年正月、司馬師がほしいままに皇帝を廃立したことに怒った毌丘倹が刺史文欽を呼んで相談すると、文欽は命を捨ててでも助けると言い、次男の文淑を先鋒にするよう勧める。幼名を阿鴦という文淑は万人も敵わない勇を持ち、常に司馬師兄弟を殺して曹爽の仇を討とうとしていたという。 演義 第110回 §1–3

毌丘倹が楽嘉城の方面を心配すると、文欽は自分と不肖の子文鴦が兵5千あれば楽嘉城を守り抜くと申し出る。魏軍の陣営がまだ整っていないとの報告に、鞭を掛けて父のそばに立っていた文鴦は、日暮れに父は2千5百で城の南から、自分は2千5百で城の北から攻め入り、三更に魏の陣営で落ち合おうと言い、文欽はその言葉に従う。演義はこのときの文鴦を、年わずか18歳、身の丈8尺、腰に鋼鞭を帯び、槍を横たえた姿で描く。 演義 第110回 §13–15

三更、文鴦の軍勢が陣営の北から真っ先に攻め込んで縦横に暴れ回ると、瘤を切り取った傷で幕舎に臥していた司馬師は大いに驚き、目玉が傷口から飛び出す。文鴦は父の呼応を待つが来ず、何度も中軍まで攻め入るが弓と弩に押し返される。夜明けごろ北から来た鄧艾と50合戦うが勝負がつかず、魏軍が前後から挟み撃ちにすると配下の兵は散り散りになり、単身で南へ逃れる。 演義 第110回 §16–19

魏の将数百人が追ってきて楽嘉橋のほとりで追いつかれそうになると、文鴦は馬首を返して将たちの陣中に躍り込み、鋼鞭で彼らを馬から叩き落とす。さらに百人が追うと「鼠どもめ、なぜ命を惜しまぬのか」と言って鞭で数人を打ち殺し、ゆっくりと馬を進めて去る。魏の将たちは四、五度追うがみな退けられる。演義は後世の人の詩でこれを長坂の子龍になぞらえる。山道で道に迷いさまよっていた文欽は、夜が明けてようやく出てきて、戦いもせずに寿春へ逃れる。 演義 第110回 §19–21

第111回で諸葛誕は文欽とその二人の子文鴦・文虎と合流し、精兵数万で司馬昭を迎え撃ちに出る。第112回で寿春城内の兵糧が尽きると、小城で二人の子とともに守っていた文欽は北方の兵を城外に出そうと言い、諸葛誕の命で引き出されて斬られる。文鴦と文虎は短刀を抜いてその場で数十人を殺し、城壁から飛び降り、堀を越えて魏の陣営に降伏する。 演義 第111回 §36演義 第112回 §12

司馬昭はかつて文鴦が単騎で軍勢を退けた恨みから彼を斬ろうとするが、鍾会が、罪は文欽にあり、降った将を殺せば城内の人々の心をいっそう固めると諫める。司馬昭は二人に駿馬と錦の衣を与え、偏将軍として関内侯に封じ、二人は城を巡って早く降伏せよと呼びかける。城内の人々は、司馬氏の仇である文鴦でさえ重用されたと言って降伏しようとし、演義で文鴦はこの後登場しない。 演義 第112回 §13–14

演義と異なる点

名前:演義第110回で文鴦は文欽の次男文淑で、幼名を阿鴦という。正史の陳寿の本文は「文欽の子文鴦と文虎」と記すのみで、文淑という名や何番目の子かは記さない。 演義 第110回 §3正史 魏書 巻28 §40

曹爽の仇:演義第110回で文欽は、息子が常に司馬師兄弟を殺して曹爽の仇を討とうとしていたと語る。陳寿の本文の毌丘倹伝は、文欽が曹爽と同郷の人であると記すのみで、文鴦の志は記さない。 演義 第110回 §3正史 魏書 巻28 §20 · 40

楽嘉の夜襲:演義第110回では文鴦が二手に分かれて攻める策を出し、単独で魏の陣営をかき乱し、楽嘉橋のほとりで単騎で魏の将たちを退ける。陳寿の本文では、文欽が夜に鄧艾らを襲おうとしたが、夜が明けて大軍を見て軍を返し、追撃されて大敗した。この戦いに文鴦の名は出てこない。 演義 第110回 §14–15 · 19–20正史 魏書 巻28 §23–24

寿春での立場:演義第111回で文鴦は文虎とともに諸葛誕・文欽と軍を合わせ、司馬昭を迎え撃ちに出る。陳寿の本文は文鴦が寿春に入った経緯を記さず、文欽が死んだとき文虎とともに小城の中で兵を率いていたと述べるのみである。 演義 第111回 §36正史 魏書 巻28 §36 · 40

帰順の経緯:演義第112回では文欽がその場で斬られると、二人の子が短刀で数十人を殺し、城壁から飛び降りて降伏する。陳寿の本文では、文欽が死んだと聞いて小城で兵を整えて駆けつけたが兵たちが従わず、二人が単身で逃れ、城壁を越えて帰順した。 演義 第112回 §12正史 魏書 巻28 §40

命を救った人:演義第112回では司馬昭が楽嘉の恨みから文鴦を斬ろうとするが、鍾会の諫言に従って生かす。陳寿の本文では、誅殺を請うたのは軍吏であり、大将軍が自ら令を下して生かした。鍾会は登場しない。 演義 第112回 §13正史 魏書 巻28 §40

官職と呼びかけ:演義第112回で二人は偏将軍となり関内侯に封じられた後、城を巡って降伏を呼びかける。陳寿の本文では、赦された二人が騎兵数百を率いて城の周りを駆け巡って呼びかけ、上表によって将軍とされ関内侯の爵位を与えられた。 演義 第112回 §13正史 魏書 巻28 §41

葬儀:陳寿の本文では、寿春が平定された後、文鴦と文虎が文欽の遺体を収めて旧墓に葬った。演義にはこのことがない。 正史 魏書 巻28 §47演義 第112回 §12–14

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率4555+10
  • 武力5090+40
  • 知力4055+15
  • 政治3131±0
  • 魅力3545+10
  • 徳4545±0
  • 処世5858±0
  • 文芸3131±0
  • 弁舌4550+5
  • 用人3333±0
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

統率正45演55 +10

正小城の兵を率いて駆けつけたが、兵が従わなかった魏書 巻28 §40

演2千5百で魏の陣営を夜襲したが、挟み撃ちに遭って兵が散った第110回 §15第110回 §19

魅力正35演45推定 +10

正父が死ぬと配下の兵が従わなかった魏書 巻28 §40

演直接の記録なし — 事績から推定第112回 §14

近い項目 6件 — 根拠を見る

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(3回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

所属の変遷

  1. 魏 · 演義 · 演義 第110回 「且说文鸯年方十八岁,身长八尺,全装惯甲,腰悬钢鞭,绰枪上马,遥望魏寨而进」 · Q124638971

家族

父母文欽 演義・正史
兄弟姉妹文虎 演義

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。

関連事件(1)

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