演義の場面
文鴦単騎退雄兵 文鴦單騎退雄兵
事件紹介
この場面は演義第110回の回目「文鴦単騎退雄兵」の場面で、毌丘倹・文欽の乱において文欽の子文鴦が楽嘉に陣を敷いた司馬師の陣営に夜襲をかけ、ただ一騎で追ってくる魏の将たちを何度も退けるくだりである。演義は、この襲撃に驚いた司馬師の目玉がこぶを切り取った跡から飛び出したとし、淮南が平定された後の正元2年2月に彼が死んだという。 演義 第110回 §13–20 · 26–28
陳寿の本文では、魏書巻28毌丘倹伝は文欽が夜に楽嘉の鄧艾らを襲おうとしたが夜が明けて大軍を見て退いたとだけ記し、文鴦の単騎の話はない。巻4三少帝紀は、正元2年(255)閏月己亥に楽嘉で文欽を破ったという。 正史 魏書 巻28 §23正史 魏書 巻4 §54
演義の描写
演義第110回で、正元2年正月、司馬師がほしいままに皇帝を廃立したことに怒った揚州都督毌丘倹は、刺史文欽とともに太后の密詔と偽って淮南の兵を寿春城に集めて誓い、6万で項城に駐屯し、文欽は2万で外から呼応する。左目のこぶを切ったばかりの司馬師は自ら輿に乗って出陣し、王基が先に南頓を押さえたうえ、呉の孫峻が寿春を襲いに来るとの知らせが入ると、毌丘倹は項城へ退く。司馬師は尚書傅嘏の言に従い、鄧艾に楽嘉城を攻めさせる。 演義 第110回 §1–12
文欽は子の文鴦と5千いれば楽嘉を守れると名乗り出、18歳の文鴦は陣営を築き終えていない魏軍を二手に分かれて攻めようと言う。三更に文鴦が陣営の北から包囲を斬り破って入り縦横に暴れると、帳中に横たわっていた司馬師は驚いて目玉が傷口から飛び出したが、軍心が揺らぐことを恐れて布団を噛み破って耐える。夜が明けても父が来ないうちに、北から来た鄧艾と50合戦った文鴦はただ一騎南へ逃れ、楽嘉橋のほとりで追ってくる魏の将たちの中へ馬首を返し、鋼鞭で退けることを4、5回繰り返す。 演義 第110回 §13–20
山道で迷って遅れた文欽は戦わずに退き、説得に追ってきた尹大目の意図を悟らないまま、寿春まで諸葛誕に奪われると呉の孫峻に身を寄せる。項城を出て戦った毌丘倹は10余騎で慎県に至り、酒に酔ったところを県令宋白に殺される。司馬師は許昌へ戻って司馬昭に後事を託し、目玉が飛び出して死ぬ。 演義 第110回 §21–28
演義と異なる点
楽嘉の夜襲:演義第110回で文鴦は司馬師の陣営を夜通しかき乱し、鄧艾と戦った後、ただ一人で魏の将たちを退ける。正史魏書巻28の毌丘倹の記事では、鄧艾が1万余人で楽嘉に至り、弱いふりをして誘い出し、それを知らない文欽が夜に鄧艾らを襲おうとしたが、夜が明けて大軍の盛んなのを見て引き返すと、大将軍が精鋭の騎兵で追撃して大いに破った。陳寿の本文のこのくだりに文鴦は出てこない。 演義 第110回 §16–21正史 魏書 巻28 §23–24
毌丘倹の最期:演義第110回で毌丘倹は慎県の県令宋白が設けた酒席で酔って殺される。正史毌丘倹伝では、慎県に着く頃には側近の者たちが離れ去り、毌丘倹は弟の毌丘秀・孫の毌丘重と水辺の草むらに隠れたが、安風津都尉の部民張属に射殺され、その首は都に送られた。 演義 第110回 §25–26正史 魏書 巻28 §24
司馬師の駐屯地:演義第110回で司馬師は大軍を率いて襄陽に駐屯し、将たちと協議する。正史毌丘倹伝では大将軍は汝陽に駐屯し、監軍王基に南頓を押さえて待たせた。 演義 第110回 §7–8正史 魏書 巻28 §22
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