演義の場面
何国舅謀誅宦豎 何國舅謀誅宦豎
事件紹介
「何国舅謀誅宦豎」は演義第2回の回目「張翼徳怒鞭督郵 何国舅謀誅宦豎」の後半の場面である。中平6年(189)夏4月に霊帝が危篤となった時から、皇后の兄何進が太子弁を立てて宦官を除こうとし、何太后の反対にぶつかって、袁紹の計略どおり各地の軍鎮に檄文を送るまでを描く。 演義 第2回 §36–37 · 41 · 52–53
陳寿の本文にも同じ筋がある。袁紹伝と武帝紀は、何進が袁紹とともに宦官を殺そうとしたが、太后が従わないため董卓を召して太后を脅そうとしたと記し、巻21に付された陳琳の伝は、この時主簿陳琳が諫めたが何進は受け入れなかったと記す。こうして呼ばれた軍が董卓進京へとつながる。 正史 魏書 巻6 §34正史 魏書 巻1 §5正史 魏書 巻21 §13–14
演義の描写
演義第2回で、中平6年(189)夏4月、霊帝は病が重くなると大将軍何進を宮中に呼んで後事を議させる。屠殺業の家の出の何進は、妹が皇子弁を産んで皇后となったことで権力を握ったが、霊帝は王美人が産んだ皇子協を立てたいと思っており、中常侍蹇碩は協を立てるならまず何進を殺すよう上奏する。宮門で司馬潘隠から耳打ちされて引き返した何進が大臣たちを集めて宦官をすべて殺そうとすると、曹操は事が漏れれば一族皆殺しの禍を受けると止めて叱られる。 演義 第2回 §36–39
霊帝が崩御すると、司隷校尉袁紹が精兵五千で宮中に入ると申し出て、何進は何顒・荀攸・鄭泰ら大臣三十余人とともに霊帝の柩の前で太子弁を皇帝に立てる。蹇碩は御苑へ逃げ込んで中常侍郭勝に殺される。袁紹がこの勢いで宦官をすべて殺そうと言うと、張譲らは何太后にすがり、太后の言を聞いた何進は蹇碩の一族だけを滅ぼすと言って引き下がる。 演義 第2回 §40–44
董太后が張譲らの言に従って皇子協を陳留王に、兄の董重を驃騎将軍に封じると、何太后と争った末、何進は董太后を河間へ移させ、兵で董重の屋敷を囲んで自害させる。6月にはひそかに人を送って董太后を毒殺する。その間に張譲・段珪は何進の弟何苗とその母舞陽君に賄賂を贈って再び寵愛を得る。 演義 第2回 §44–50
袁紹はこの機に宦官を除くよう勧めるが、何太后は宦官が宮中を治めるのは漢の古くからのしきたりだとして許さない。袁紹が四方の英雄を呼んで兵を率いて都へ来させようと言うと、何進はすぐに檄文を送る。主簿陳琳は「目を掩いて燕雀を捕らう」という諺を引き、矛を逆さに握って人に柄を渡すようなものだと止めるが、何進は臆病者の考えだと笑う。この時、そばで手を打ち、このことは手のひらを返すようにたやすいと大笑いしたのが曹操である。 演義 第2回 §50–55
演義と異なる点
董卓を呼んだ計略:演義第2回では、外の兵を都に呼び寄せる計略を袁紹が出し、何進が従う。正史の袁紹伝は、袁紹が何進にその場で決断するよう再三勧めたが何進は許さなかったとし、董卓を召したことは董卓伝と武帝紀のどちらも何進がしたこととしてだけ記す。 演義 第2回 §53正史 魏書 巻6 §34 · 5正史 魏書 巻1 §5
蹇碩の死:演義第2回では、蹇碩は袁紹が捕らえに入ってくると御苑へ逃げ込み、中常侍郭勝に殺される。正史の魏書巻8二公孫陶四張伝は、霊帝が崩御すると蹇碩は何進に殺されたと記す。 演義 第2回 §42正史 魏書 巻8 §31
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