孫皎
人物紹介
孫皎は字を叔朗といい、孫堅の末弟孫静の子である。護軍校尉として初めて兵を率い、曹公がたびたび濡須に出てくるたびに駆けつけて防いだので、精鋭と呼ばれた。都護・征虜将軍に移り、程普に代わって夏口を監督した。 正史 呉書 巻6 §2 · 4 · 10
財物を軽んじてよく施し、人とよく交わったが、酒席で甘寧を侮って孫権から叱責の手紙を受け、謝罪した。呂蒙が南郡を襲撃するとその後に続き、関羽を捕らえ荊州を平定するのに力を添え、建安24年(219)に死去した。 正史 呉書 巻6 §10 · 12–17
陳寿は宗室伝の評で、孫氏の人々は国を興す最初の基礎を助け、あるいは辺境を守って、その任に堪え、栄誉を汚さなかったと述べた。演義では第75回にのみ登場し、全120回のうち1回に登場するが、回目に名は見えない。演義は彼の字を叔明とし、呂蒙の言葉に従って孫権が彼に後方から兵糧と馬草を送らせる姿を描く。 正史 呉書 巻6 §52演義 第75回 §29–31
正史の記録
孫皎は字を叔朗という。父の孫静は孫堅の末弟で、息子が五人おり、孫暠・孫瑜・孫皎・孫奐・孫謙である。孫皎は初め護軍校尉に任じられ、二千余人を率いた。このとき曹公がたびたび濡須に出てくると、孫皎はそのたびに駆けつけて防ぎ、精鋭と呼ばれた。 正史 呉書 巻6 §2 · 4 · 10
都護・征虜将軍に移り、程普に代わって夏口を監督した。黄蓋と兄の孫瑜が死ぬと、その兵も併せた。沙羨・雲杜・南新市・竟陵を奉邑として賜り、自ら長吏を置いた。 正史 呉書 巻6 §10
孫皎は財物を軽んじてよく施し、人とよく交わり、諸葛瑾とはきわめて親しかった。廬江の劉靖には得失の判断を、江夏の李允には諸事を、広陵の呉碩と河南の張梁には軍事を任せ、心を尽くして親しく遇したので、皆が力を尽くした。 正史 呉書 巻6 §10–11
孫皎が兵を遣わして偵察させたとき、兵たちが魏の辺境の将吏の美女を捕らえて献上したことがあった。孫皎はその衣服を改めさせて送り返し、「いま我らが討つのは曹氏であって、その民に何の罪があろうか。今後は老人や弱い者を攻撃してはならない」と命じた。このため長江と淮水の間で帰順する者が多かった。 正史 呉書 巻6 §11
劉備が益州を得たのち荊州をめぐって争いが起こると、呂蒙は長沙・零陵・桂陽の三郡を得たのち軍を率いて戻り、孫皎・潘璋および魯粛の軍とともに益陽で関羽を防いだ。戦う前に曹公が漢中に入ったため劉備が和睦を求め、荊州を分けて再び同盟を結んだ。 正史 呉書 巻2 §19–21
孫皎はささいなことで甘寧と怒って争ったことがあった。ある人が甘寧を諫めると、甘寧は、臣下たる者は皆同じであり、征虜将軍が公子であっても勝手に人を侮辱することはできないと言い、世俗に従って屈することはできないと述べた。孫権はこれを聞いて孫皎に書を送り、初めて北方と対峙したときは年若かったが今はまもなく三十であると言い、精兵と大任を授けて千里の外で諸将を都護させたのは北の辺境に威を振るわせるためであって、私的な思いを遂げさせるためではないと述べた。 正史 呉書 巻6 §12–13
孫権はさらに、孫皎が甘興覇と酒を飲み、酒の勢いで怒って彼を侮辱したため、その人が呂蒙の配下に入ることを願い出たと言い、彼は粗暴ではあるがおおむね大丈夫であると述べた。また、敬んで簡素に行えば民に臨むことができ、人を愛して寛容であれば衆を得ることができると諭し、過ちは改められることが貴いのだから深く自らを責めよと言って、諸葛子瑜を遣わして重ねて意を伝えさせた。孫皎は書を受け取ると上疏して謝罪し、ついに甘寧と親しい間柄となった。 正史 呉書 巻6 §13–16
のちに呂蒙が南郡を襲撃することになると、孫権は孫皎と呂蒙を左右部の大督にしようとした。呂蒙は、征虜将軍が有能ならば彼を用い、自分が有能ならば自分を用いるべきであり、かつて周瑜と程普が左右部の督として共に江陵を攻めたとき、程普が古参の将であることを自負し、しかも二人とも督であったため、ついに不和となって国事をほとんど誤るところであったと述べた。孫権は悟って呂蒙を大督とし、孫皎には後に続かせた。 正史 呉書 巻6 §16–17
関羽を捕らえ荊州を平定するのに孫皎は力を添えた。孫皎は建安24年(219)に死去した。孫権はその功を追録して子の孫胤を丹楊侯に封じた。孫胤が子のないまま死ぬと弟の孫晞が跡を継いだが、兵を率いていて罪を犯し自殺したため、封国は廃された。孫晞の弟の孫咨・孫彌・孫儀は皆将軍となり侯に封じられたが、孫咨は滕胤に殺され、孫儀は孫峻に害された。 正史 呉書 巻6 §17
陳寿は宗室伝の評で、親族を親しむ恩義は古今変わらぬ道理であり、「宗子は維れ城」とは詩人のたたえたところであると述べた。そして孫氏の人々が国を興す最初の基礎を助け、あるいは辺境を守って、その任に堪え栄誉を汚さなかったので、詳しく記すと述べた。 正史 呉書 巻6 §52
演義の描写
演義第75回で、陸遜は関羽が荊州の兵の大半を樊城に送ったことを探り出し、夜を日に継いで孫権に知らせる。孫権は呂蒙を呼び、荊州を奇襲して取るべきときだとして、「卿が我が弟孫皎とともに大軍を率いて行くのはどうか」と問う。演義は孫皎を、字は叔明で孫権の叔父孫静の次男と紹介する。 演義 第75回 §28–29
呂蒙は、主公が自分を用いるに足ると思うなら自分だけを、叔明を用いるに足ると思うなら叔明だけを用いるよう答える。かつて周瑜と程普が左右の都督であったとき、事は周瑜が決めたが、程普は古くからの臣でありながら周瑜の下にいるとして仲が良くなく、周瑜の才を見てようやく敬服したというのである。呂蒙は、いま自分の才は周瑜に及ばず、叔明の親しさは程普以上であるから、互いに助け合って事を成し遂げられないのではないかと恐れると言う。 演義 第75回 §29–30
孫権は大いに悟り、呂蒙を大都督として江東の諸路の軍馬をすべて率いさせ、孫皎には後方から兵糧と馬草を送らせる。呂蒙は水に慣れた者を商人に仕立てて白衣を着せて櫓をこがせ、精兵は船の中に隠す。演義で孫皎が登場するのはこの回だけである。 演義 第75回 §31
演義と異なる点
字:演義第75回は孫皎の字を叔明とする。正史の宗室伝は字を叔朗と記す。 演義 第75回 §29正史 呉書 巻6 §10
兄弟の順:演義第75回は孫皎を孫静の次男とする。正史は孫静の子を孫暠・孫瑜・孫皎・孫奐・孫謙の順に記しており、孫皎は三男である。 演義 第75回 §29正史 呉書 巻6 §4
孫権が最初に任せようとした地位:演義第75回で孫権は呂蒙に、孫皎とともに大軍を率いて行くのはどうかと問う。正史で孫権は孫皎と呂蒙を左右部の大督にしようとした。 演義 第75回 §28正史 呉書 巻6 §16
呂蒙が挙げた故事:演義第75回の呂蒙は、周瑜と程普は仲が良くなかったが、のちに程普が周瑜の才を見て敬服したと言う。正史の呂蒙は、程普が古参の将であることを自負し、しかも二人とも督であったため、ついに不和となって国事をほとんど誤るところであったとし、これが目前の戒めであると言う。 演義 第75回 §29–30正史 呉書 巻6 §16
任された役目:演義第75回で孫皎は後方から兵糧と馬草を送る役目を担う。正史で孫権は孫皎に後に続かせ、陳寿は関羽を捕らえ荊州を平定するのに孫皎が力を添えたと記した。 演義 第75回 §31正史 呉書 巻6 §17
甘寧との争い:演義には孫皎と甘寧の争いは出てこない。正史では孫皎が酒席で甘寧を侮って孫権から叱責の手紙を受けて謝罪し、その後甘寧と親しい間柄となった。 演義 第75回 §28–31正史 呉書 巻6 §12–16
死:演義で孫皎は第75回にのみ登場し、死は記されていない。正史では建安24年(219)に死去し、孫権がその功を追録して子の孫胤を丹楊侯に封じた。 演義 第75回 §31正史 呉書 巻6 §17
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能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率7050−20
- 武力5040−10
- 知力5040−10
- 政治5052+2
- 魅力7242−30
- 徳6248−14
- 処世6042−18
- 文芸3532−3
- 弁舌5235−17
- 用人7036−34
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
近い項目 2件 — 根拠を見る
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。