張梁
人物紹介
張梁は河南の人で、呉の宗室孫皎とその弟孫奐のもとで軍事を任された将である。正史には独立した伝がなく、陳寿の本文では呉書巻6の宗室伝の孫皎・孫奐の記録と、巻13の陸遜伝に名が見える。黄武5年(226)、孫権が石陽を攻めた際、呉碩とともに孫奐に従って先鋒となり、その後裨将軍となって関内侯の爵位を賜った。 正史 呉書 巻6 §11 · 19–20
陸遜伝には、嘉禾5年(236)に陸遜がひそかに送った将軍周峻・張梁らが江夏の新市・安陸・石陽を攻めたことが記されている。陳寿の本文は彼の字と生没を記さず、巻6・巻13の評でも彼を取り上げていない。演義には登場しない。 正史 呉書 巻13 §45 · 91正史 呉書 巻6 §52
正史の記録
孫皎は都護・征虜将軍に移り、程普に代わって夏口を監督した。彼は廬江の劉靖には得失の判断を、江夏の李允には諸事を、広陵の呉碩と河南の張梁には軍事を任せ、心を尽くして親しく遇したので、皆が力を尽くした。 正史 呉書 巻6 §10–11
孫皎は建安24年(219)に死去した。弟の孫奐が代わってその軍勢を率い、揚武中郎将として江夏太守を兼ねたが、職にあった1年の間、孫皎の旧例に従って劉靖・李允・呉碩・張梁と江夏の閭挙らを礼遇し、その良い意見をすべて受け入れた。 正史 呉書 巻6 §17 · 19
黄武5年(226)、孫権が石陽を攻撃すると、孫奐はその地の主として配下の将軍鮮于丹に5千人を率いて先に淮水への道を断たせ、自らは呉碩・張梁と5千人を率いて軍の先鋒となり、高城を降伏させて将3人を捕らえた。大軍が帰還する際、孫権は孫奐の軍陣が整然としているのを見て感嘆した。孫奐は揚威将軍に任じられ沙羨侯に封じられ、呉碩と張梁はともに裨将軍となり関内侯の爵位を賜った。 正史 呉書 巻6 §19–20
陸遜伝によれば、嘉禾5年(236)、孫権は北伐に出て、陸遜と諸葛瑾に襄陽を攻めさせた。孫権がすでに帰ったのち、陸遜は諸葛瑾に船を監督させ、兵馬をすべて陸に上げて襄陽城へ向かった。敵が急いで城に戻ると、諸葛瑾は船を率いて出て、陸遜はゆっくりと部隊を整えて歩いて船へ向かった。 正史 呉書 巻13 §43–45
軍が白囲に至ると、陸遜は狩りをしてとどまると称し、ひそかに将軍周峻・張梁らを送って江夏の新市・安陸・石陽を攻めさせた。石陽の市がちょうどにぎわっているときに周峻らが不意に襲いかかったので、人々はみな品物を捨てて城に入り、城門がふさがって閉じられなくなると、敵は自分たちの民を斬り殺してようやく門を閉じることができた。斬首したり捕らえたりした者は合わせて千余人であった。 正史 呉書 巻13 §45–46
陳寿の本文で張梁が見えるのはこの四つの節だけで、彼の字・生没とその後のことは記されていない。陳寿は巻6の評で、孫氏の人々はあるいは国の最初の基盤を助け、あるいは辺境を守ってその任に堪えたと述べただけで、その配下の張梁は取り上げていない。 正史 呉書 巻6 §11 · 19–20 · 52正史 呉書 巻13 §45
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。
- 統率60
- 武力45
- 知力40
- 政治35
- 魅力38
- 徳45
- 処世40
- 文芸31
- 弁舌33
- 用人33
項目別の根拠
正先鋒として高城を降して将3人を捕らえ、石陽を奇襲した呉書 巻6 §20呉書 巻13 §45
正直接の記録なし — 先鋒の将であることから推定呉書 巻6 §20
正直接の記録なし — 事績から推定呉書 巻6 §11
正直接の記録なし — 事績から推定呉書 巻6 §11
正直接の記録なし — 事績から推定呉書 巻6 §19
正直接の記録なし — 孫皎のもとで力を尽くした記録から推定呉書 巻6 §11
正直接の記録なし — 事績から推定呉書 巻6 §20
正直接の記録なし — 武将として推定呉書 巻6 §11
正直接の記録なし — 武将として推定呉書 巻6 §19
正直接の記録なし — 武将として推定呉書 巻6 §19
正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。
所属の変遷
- 呉 · 正史 · 正史 巻51 「河南張梁以軍旅」