曹彰
人物紹介
曹彰は字を子文といい、太祖曹操の子で、武宣卞皇后が生んだ文帝曹丕・曹植の同母兄弟である。幼い頃から弓術と馬術に優れ、腕力が人並み外れていた。 正史 魏書 巻19 §2正史 魏書 巻20 §2
建安23年(218)、代郡の烏丸が反乱を起こすと、北中郎将として行驍騎将軍となって出陣し、桑乾まで追撃して大いに破り、鮮卑の軻比能も服属を願い出た。黄初3年(222)に任城王となり、4年(223)に京都に来朝したところ、邸宅で病死した。 正史 魏書 巻19 §4–6 · 9正史 魏書 巻2 §44
正史を著した陳寿は評で、彼を「武芸は壮猛で、将帥の気概があった」と述べた。演義では第72回に初めて登場し、全120回のうち3回に登場し、回目に名が入った回はない。演義は、彼が漢中の曹操を助けに来て呉蘭を突き刺す場面と、曹操の死後に兵を率いてやって来たが、賈逵の言葉を受けて軍馬を曹丕に引き渡す場面を描く。 正史 魏書 巻19 §69演義 第72回 §20 · 24演義 第79回 §1–3
正史の記録
任城威王曹彰は字を子文という。幼い頃から弓術と馬術に優れ、腕力が人並み外れていて、素手で猛獣と格闘し、険しい場所も避けなかった。たびたび征伐に従軍し、意気は盛んであった。太祖は彼を抑えて、書物を読んで聖人の道を慕うことを考えず、汗馬に乗って剣を撃つことばかり好んでいるが、これは一人の男の用にすぎないと言い、『詩経』と『書経』を読むよう課題を与えた。曹彰は左右の者に、大丈夫たるもの衛青や霍去病のように十万の騎兵を率いて砂漠を駆け、戎狄を追い払って功を立てるだけのこと、どうして博士などになれようかと言った。 正史 魏書 巻19 §2
太祖が息子たちにそれぞれの志を尋ねると、曹彰は将となることを好むと言い、堅い鎧を着て鋭い武器を執り、難に臨んでも顧みず士卒に先んじ、賞は必ず与え罰は必ず信を守ると答えた。太祖は大笑いした。建安21年(216)に鄢陵侯に封じられた。 正史 魏書 巻19 §3
建安23年(218)、代郡の烏丸が反乱を起こすと、太祖は曹彰を北中郎将とし、行驍騎将軍とした。武帝紀はこの反乱を、同年夏4月に代郡・上谷の烏丸の無臣氐らが起こしたものと記す。出発に際し、太祖は家にあっては父子であるが、事を受ければ君臣であり、行動は王法に従わねばならないと戒めた。曹彰が涿郡の境に入ると、背いた胡の騎兵数千が突然襲来したが、兵馬がまだ集まりきっておらず、歩兵千人と騎兵数百騎しかいなかった。田豫の計略を用いて要害を固く守ると、敵は退いて散った。田豫の伝も、彼が相として車を巡らせて円陣を組ませ、胡人を退けたこと、代郡を平定したのはすべて田豫の策であったことを記している。 正史 魏書 巻19 §4正史 魏書 巻1 §161正史 魏書 巻26 §28
曹彰は敵を追撃し、自ら格闘して胡の騎兵を射たが、弦の音に応じて倒れる者が相次いだ。戦いが半日を過ぎると鎧に数本の矢が刺さったが、意気はますます激しくなり、逃げる敵を追って代県から二百余里離れた桑乾に至った。長史や諸将は、遠路をやって来て疲れており、代県を越えてはならないとの節度を受けているのだから、深入りしてはならないと言った。曹彰は、軍を率いて進むのは利のある所に従うことであり、命令に従って敵を見逃すのは良将ではないと言い、遅れて出る者は斬ると命じた。一日一夜で敵に追いついて大いに破り、斬首と捕虜は千を数え、曹彰は通常の規定の倍で将兵に賞を与えた。数万騎を率いて双方の強弱をうかがっていた鮮卑の大人軻比能は、曹彰の向かう所ことごとく破るのを見て、服属を願い出た。 正史 魏書 巻19 §5–6
北方がすべて平定されると、長安にいた太祖は曹彰を行在所に呼び寄せた。曹彰が代県から鄴を通ったとき、太子は、新たに功を立てたのだから自ら誇らず、常に足りないかのように応対せよと言い、曹彰はその言葉どおり功を諸将に帰した。太祖は喜んで曹彰のひげをつかみ、「黄鬚児はなんと大いに奇なるものよ!」と言った。太祖は東へ帰る際、曹彰を行越騎将軍として長安に留めた。 正史 魏書 巻19 §7–8
太祖は洛陽に至って病にかかり、駅馬で曹彰を呼び寄せたが、到着する前に崩御した。賈逵の伝によれば、賈逵が喪事を取り仕切っていたとき、行越騎将軍であった鄢陵侯曹彰が長安から駆けつけ、先王の璽綬はどこにあるかと尋ねた。賈逵は顔色を正して、太子は鄴におられるので、先王の璽綬は君侯がお尋ねになるべきものではないと答え、梓宮を奉じて鄴に帰った。 正史 魏書 巻19 §8正史 魏書 巻15 §74
文帝が王位に即くと、曹彰はほかの諸侯とともに封国に赴いた。文帝は詔書で、曹彰はさきに命を受けて北伐し、北方の地を平定した功が大きいとして、食邑五千戸を加え、合わせて一万戸とした。黄初2年(221)に爵位が進んで公となり、3年(222)に任城王に立てられた。4年(223)に京都に来朝したところ、邸宅で病のため薨去し、諡を威といった。文帝紀はその日を6月甲戌の日と記す。葬儀の際には鑾輅・龍旂と虎賁百人を賜り、漢の東平王の故事にならった。子の曹楷が跡を継いだ。 正史 魏書 巻19 §8–9正史 魏書 巻2 §44
陳寿は評で、任城王は武芸が壮猛で、将帥の気概があったと述べた。 正史 魏書 巻19 §69
演義の描写
演義第72回で、陽平関を捨てて逃げる曹操が斜谷の入り口に至ったとき、一隊の兵が現れるが、それは曹操の次男曹彰である。演義は彼を、幼い頃から騎射に優れ、素手で猛獣を打ち殺すことができたと紹介する。書物を読まず弓馬ばかり好むのは匹夫の勇にすぎないという曹操の叱責に、曹彰は衛青と霍去病にならって砂漠で功を立て、数十万の衆を率いて天下を縦横すると答える。将となればどうするかという問いには、自ら士卒に先んじ、賞罰は必ず信を守ると言う。 演義 第72回 §19–21
同じ回で、建安23年に代郡の烏桓が反乱を起こすと、曹操は曹彰に兵5万を与えて討たせ、家にあっては父子であるが事を受ければ君臣であり、法は私情に従わないと戒める。曹彰は代の北で自ら戦陣の先頭に立って桑乾まで攻め入り、北方を平定したのち、曹操が陽平で敗れたと聞いて戦いを助けに来たのである。曹操は「わが黄鬚児が来たからには、劉備を破ることは間違いない」と大いに喜び、再び斜谷の入り口に陣営を構える。 演義 第72回 §21–22
劉備の側から劉封と孟達が出てくると、曹彰は劉封と戦い、わずか3合で大敗させて帰らせる。しかし馬超と呉蘭の軍が攻め込んで曹操の軍が崩れ、曹彰は呉蘭と打ち合って数合もたたないうちに戟の一突きで彼を馬から落とす。 演義 第72回 §22–24
第78回で曹操は死の前に、曹洪らに卞氏が生んだ4人の息子を挙げ、次男曹彰は勇はあるが謀がないと言い、長男曹丕に跡を継がせる。曹操が死ぬと鄢陵侯曹彰のもとにも訃報が送られ、曹丕が魏王に即いて宴を開いている席に、鄢陵侯曹彰が長安から10万の大軍を率いてやって来るとの知らせが入る。曹丕は、性格が剛直で武芸に深く通じた黄鬚の弟が王位を争いに来たのだと大いに驚く。 演義 第78回 §29–30 · 34 · 39
第79回で諫議大夫の賈逵が城を出て曹彰を迎える。曹彰が先王の璽綬はどこにあるかと尋ねると、賈逵は家には長子があり国には世子があるのだから、君侯がお尋ねになるべきものではないと顔色を正す。宮門の前で、喪に駆けつけたのか位を争いに来たのかと問われると、曹彰は喪に駆けつけただけだと言い、ではなぜ兵を率いて入るのかと言われると、左右の将兵を退けて単身で入り、曹丕に拝謁する。兄弟二人は抱き合って大いに泣き、曹彰は配下の軍馬をすべて曹丕に引き渡したのち、鄢陵に帰って守るよう命じられて去る。演義はその後の曹彰の死を描かない。 演義 第79回 §1–3
演義と異なる点
大丈夫の言葉:演義第72回で曹彰は、書物を読まないという曹操の叱責に、すぐさま衛青と霍去病にならって数十万の衆を率いると答える。正史では、太祖が『詩経』と『書経』を読むよう課題を与えると、曹彰は左右の者に十万の騎兵を率いて砂漠を駆けると言った。 演義 第72回 §20正史 魏書 巻19 §2
北方征伐の兵力:演義第72回で曹操は曹彰に兵5万を与えて送り出す。正史では曹彰は北中郎将として行驍騎将軍となって出陣し、涿郡の境で胡の騎兵数千が襲来したとき、兵馬が集まりきっておらず、歩兵千人と騎兵数百騎しかいなかった。 演義 第72回 §21正史 魏書 巻19 §4
征伐の経過:演義第72回は、曹彰が自ら先頭に立って桑乾まで攻め入り、北方を平定したと記すだけである。正史では、田豫の計略で要害を守って敵を退けたのち、代県を越えてはならないとの節度を挙げて止める長史や諸将を退け、一日一夜追撃して大いに破り、これを見た軻比能が服属を願い出た。 演義 第72回 §22正史 魏書 巻19 §4–6
漢中の戦い:演義第72回で曹彰は北方を平定したのち、陽平で敗れた曹操を助けに斜谷の入り口に来て劉封を退ける。正史では、長安にいた太祖が曹彰を呼び寄せ、曹彰は鄴を通って長安に来て功を諸将に帰し、太祖は東へ帰る際に彼を長安に留めた。正史の曹彰伝には、彼が漢中の戦いに加わったという記録はない。 演義 第72回 §22–23正史 魏書 巻19 §7–8
呉蘭を殺した人物:演義第72回では曹彰が呉蘭を戟で突き殺す。正史の武帝紀では、建安23年(218)に曹洪が呉蘭を破ったのち、3月に陰平の氐族強端が呉蘭を斬り、その首を送った。 演義 第72回 §24正史 魏書 巻1 §160
黄色いひげ:演義第72回で曹操は漢中に来た曹彰を見て「わが黄鬚児が来たからには、劉備を破ることは間違いない」と言う。正史では、北方を平定してやって来た曹彰が功を諸将に帰すと、太祖は彼のひげをつかんで「黄鬚児はなんと大いに奇なるものよ!」と言った。 演義 第72回 §22正史 魏書 巻19 §7
曹操の遺言:演義第78回で曹操は、曹彰は勇はあるが謀がないと遺言する。正史の曹彰伝にはこの言葉はなく、太祖が洛陽で病にかかると駅馬で曹彰を呼び寄せたが、彼が着く前に崩御したと記す。 演義 第78回 §30正史 魏書 巻19 §8
璽綬を問うたこと:演義第78~79回で曹彰は長安から10万の大軍を率いて曹丕のもとに来て、迎えに出た賈逵に璽綬のことを尋ねたのち、軍馬をすべて曹丕に引き渡す。正史の賈逵伝では、太祖が洛陽で崩御して賈逵が喪事を取り仕切っていたとき、曹彰が長安から駆けつけて璽綬のことを尋ね、賈逵は梓宮を奉じて鄴に帰った。10万の大軍と軍馬の引き渡しは正史にない。 演義 第78回 §39演義 第79回 §1–3正史 魏書 巻15 §74正史 魏書 巻19 §8
その後:演義第79回で曹彰は鄢陵に帰って守るよう命じられて去ったのち再び登場せず、死も記されていない。正史では食邑が一万戸に増え、黄初3年(222)に任城王となり、4年(223)に京都に来朝したところ、邸宅で病死した。 演義 第79回 §3正史 魏書 巻19 §8–9
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率7466−8
- 武力8688+2
- 知力4825−23
- 政治3531−4
- 魅力6450−14
- 徳5852−6
- 処世5555±0
- 文芸2222±0
- 弁舌3835−3
- 用人4035−5
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
近い項目 8件 — 根拠を見る
スペシャル — 才能 正史 +50 · 演義 +50
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。
演義の登場回(3回)
登場登場なし 登場回の一覧 →
所属の変遷
- 魏 · 正史 · 正史 巻19 「黃初二年,進爵為公」
家族
| 父母 | 武宣卞皇后 演義・正史, 曹操 演義・正史 |
|---|---|
| 兄弟姉妹 | 曹徽 正史, 曹沖 正史, 曹昂 演義・正史, 曹宇 正史, 曹節 演義, 曹均 正史, 曹林 正史, 曹彪 正史, 曹袞 正史, 曹熊 演義・正史, 曹峻 正史, 曹整 正史, 曹植 演義・正史, 清河公主 演義, 曹幹 正史, 曹丕 演義・正史 |
Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。
関連事件(1)
- 曹阿瞞兵退斜谷 219年 · 登場(演義の場面)
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