劉琮

正史演義 蜀 Liu Cong유종刘琮

プロフィール
職業正その他 · 西河王所属蜀
登場正演収録
出生正? 推定出身地涿郡 涿県 推定
死去正262年 推定死去地
実在実在言及正2回

人物紹介

劉琮は蜀漢の後主の子である。陳寿の本文には独立した伝がなく、後主伝に二度登場する。延熙15年(252)に西河王に立てられ、景耀5年(262)春正月に死去した。荊州の劉表の末子劉琮とは別人である。 正史 蜀書 巻3 §32 · 42正史 魏書 巻6 §90–91

陳寿の本文は彼の字・母・年齢や死因を記しておらず、彼が登場する後主伝の評も彼を扱っていない。演義では第118回に後主の七人の子のうち三男として名だけが見え、全120回のうち1回に登場し、名が回目に入った回はない。演義は後主が鄧艾に降伏するかどうかを議する場で彼を子として挙げるが、陳寿の本文では彼は蜀が滅ぶ一年前に死去している。 正史 蜀書 巻3 §42 · 53演義 第118回 §4正史 蜀書 巻4 §25

正史の記録

延熙15年(252)、呉王孫権が世を去った年に、後主は子の劉琮を西河王に立てた。陳寿の本文は彼の字や母、当時の年齢を明らかにしていない。後主の妻妾と子を収めた二主妃子伝にも彼の項目はない。二主妃子伝の皇子の項目は、先主の子劉永・劉理と後主の太子劉璿のみを収める。 正史 蜀書 巻3 §32正史 蜀書 巻4 §16–25

後主の他の子たちも、後主伝で次々に太子や王に立てられた。延熙元年(238)春正月には劉璿を太子に、劉瑤を安定王に立て、19年(256)には劉瓚を新平王に、景耀2年(259)夏6月には劉諶を北地王に、劉恂を新興王に、劉虔を上党王に立てた。陳寿の本文はこれらの子の年齢の順を明らかにしていない。 正史 蜀書 巻3 §19 · 36 · 39

景耀5年(262)春正月、西河王劉琮が死去した。この年、姜維は再び軍勢を率いて侯和に出たが鄧艾に撃破され、戻って沓中に駐屯した。陳寿の本文は劉琮の死因も、その跡を継いだ者も記していない。 正史 蜀書 巻3 §42

翌年の景耀6年(263)冬、蜀は滅んだ。後主は光禄大夫譙周の策を用いて鄧艾に降伏し、この日、北地王劉諶は国の滅亡を悲しみ、まず妻子を殺してから自害した。後主の一家はみな東の洛陽に移り、陳寿は子孫のうち三都尉となったり侯に封じられたりした者が50余人いたと記す。 正史 蜀書 巻4 §25正史 蜀書 巻3 §43 · 46 · 48 · 52

後主伝の評で陳寿は、後主が賢い宰相に任せたときは理に従う君主であったが、宦官に惑わされると愚かで暗い君主になったと論じるのみで、劉琮を扱っていない。 正史 蜀書 巻3 §53

演義の描写

演義第118回で、鄧艾が綿竹を奪い諸葛瞻父子がすでに死んだという知らせが成都に届くと、光禄大夫譙周は呉に身を寄せず魏に降るほうがよいと述べ、翌日にも再び上疏して諫める。後主が譙周の言に従って出て降伏しようとすると、屏風の後ろから五男の北地王劉諶が現れて譙周を罵る。 演義 第118回 §1 · 3–4

演義はこの場面で後主の七人の子を挙げる。長男は劉璿、次男は劉瑤、三男は劉琮、四男は劉瓚、五男が北地王劉諶、六男は劉恂、七男は劉璩である。七人のうちただ劉諶だけが幼いころから聡明で英敏さが人に抜きんでており、残りはみな懦弱で温和であったという。演義で劉琮の名が出るのはこの一度だけである。 演義 第118回 §4–5

翌日、魏軍が大挙して到着すると、後主は太子と諸王、臣下60余人を率い、自ら後ろ手に縛り、棺を車に載せて北門の外10里まで出て降伏する。 演義 第118回 §13

演義と異なる点

死去の時期:演義第118回は、後主が降伏を議する場で後主の七人の子のうち三男として劉琮を挙げる。陳寿の本文の後主伝では、劉琮はそれより前の景耀5年(262)春正月にすでに死去しており、蜀が滅んだのは翌年の景耀6年(263)冬である。 演義 第118回 §4正史 蜀書 巻3 §42正史 蜀書 巻4 §25

西河王:陳寿の本文で劉琮は延熙15年(252)に西河王に立てられた。演義は第118回で一度名を挙げるだけで、彼が西河王に封じられたことは記さない。 正史 蜀書 巻3 §32演義 第118回 §4

兄弟と順序:演義第118回は劉琮を三男として挙げる。陳寿の本文の後主伝には劉璿・劉瑤・劉琮・劉瓚・劉諶・劉恂・劉虔を太子や王に立てた記録があるだけで兄弟の順序はなく、劉璩は登場しない。 演義 第118回 §4正史 蜀書 巻3 §19 · 32 · 36 · 39

人柄:演義第118回は、七人の子のうち劉諶だけが聡明で英敏であり、残りはみな懦弱で温和であったと記す。陳寿の本文には劉琮の人柄は記されていない。 演義 第118回 §5正史 蜀書 巻3 §32 · 42

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率3131±0
  • 武力3131±0
  • 知力3835−3
  • 政治3835−3
  • 魅力4038−2
  • 徳4542−3
  • 処世4038−2
  • 文芸4038−2
  • 弁舌3533−2
  • 用人3533−2
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

10点以上の差がある項目はありません — 演義も正史とほぼ同じように描いています。

近い項目 10件 — 根拠を見る
  • 統率正31推定演31推定 ±0

    正直接の記録なし — 西河王への冊封と没年の記録のみから推定蜀書 巻3 §32蜀書 巻3 §42

    演直接の記録なし — 後主の三男として名が挙がることのみから推定第118回 §4

  • 武力正31推定演31推定 ±0

    正直接の記録なし — 西河王への冊封と没年の記録のみから推定蜀書 巻3 §32蜀書 巻3 §42

    演直接の記録なし — 後主の三男として名が挙がることのみから推定第118回 §4

  • 知力正38推定演35推定 −3

    正直接の記録なし — 西河王への冊封と没年の記録のみから推定蜀書 巻3 §32蜀書 巻3 §42

    演直接の記録なし — 後主の三男として名が挙がることのみから推定第118回 §4

  • 政治正38推定演35推定 −3

    正直接の記録なし — 西河王への冊封と没年の記録のみから推定蜀書 巻3 §32蜀書 巻3 §42

    演直接の記録なし — 後主の三男として名が挙がることのみから推定第118回 §4

  • 魅力正40推定演38推定 −2

    正直接の記録なし — 西河王への冊封と没年の記録のみから推定蜀書 巻3 §32蜀書 巻3 §42

    演直接の記録なし — 後主の三男として名が挙がることのみから推定第118回 §4

  • 徳正45推定演42推定 −3

    正直接の記録なし — 西河王への冊封と没年の記録のみから推定蜀書 巻3 §32蜀書 巻3 §42

    演直接の記録なし — 後主の三男として名が挙がることのみから推定第118回 §4

  • 処世正40推定演38推定 −2

    正直接の記録なし — 西河王への冊封と没年の記録のみから推定蜀書 巻3 §32蜀書 巻3 §42

    演直接の記録なし — 後主の三男として名が挙がることのみから推定第118回 §4

  • 文芸・学術正40推定演38推定 −2

    正直接の記録なし — 西河王への冊封と没年の記録のみから推定蜀書 巻3 §32蜀書 巻3 §42

    演直接の記録なし — 後主の三男として名が挙がることのみから推定第118回 §4

  • 弁舌・外交正35推定演33推定 −2

    正直接の記録なし — 西河王への冊封と没年の記録のみから推定蜀書 巻3 §32蜀書 巻3 §42

    演直接の記録なし — 後主の三男として名が挙がることのみから推定第118回 §4

  • 識人・用人正35推定演33推定 −2

    正直接の記録なし — 西河王への冊封と没年の記録のみから推定蜀書 巻3 §32蜀書 巻3 §42

    演直接の記録なし — 後主の三男として名が挙がることのみから推定第118回 §4

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(1回)

登場登場なし 登場回の一覧 →