鄧良

正史演義 蜀 Deng Liang등량邓良

プロフィール
職業正演文官 · 駙馬都尉所属蜀
登場正演収録
出生出身地南陽郡 新野県 推定
実在実在言及正3回

人物紹介

鄧良は蜀の車騎将軍鄧芝の子である。正史には独立した伝がなく、陳寿の本文の二か所に名が見える。蜀書巻15鄧芝伝の末尾には、子の鄧良が爵位を継ぎ、景耀年間に尚書左選郎となり、晋の朝廷で広漢太守を務めたと記される。炎興元年(263)冬、後主劉禅が鄧艾に降伏したとき、降伏の書と印綬を奉じて行った駙馬都尉鄧良は、蜀書巻3後主伝に見える。陳寿の本文はこの二つの記録を直接結びつけていない。 正史 蜀書 巻15 §8–9正史 蜀書 巻3 §43 · 45

演義では第118回にのみ登場し、回目に名が入る回はない。後主が譙周の言に従って降伏を決めると、侍中張紹とともに譙周に従い、玉璽を奉じて雒城の鄧艾のもとへ赴く駙馬都尉として登場する。 演義 第118回 §7–8

正史の記録

鄧芝は義陽郡新野県の人で、諸葛亮の死後に前軍師・前将軍となり陽武亭侯に封じられ、延熙6年(243)に車騎将軍に昇進し、延熙14年(251)に死去した。陳寿は鄧芝伝の末尾に、子の鄧良が爵位を継ぎ、景耀年間に尚書左選郎となり、晋の朝廷で広漢太守を務めたと記した。 正史 蜀書 巻15 §2 · 7–9

蜀書巻3によれば、景耀6年(263)夏、魏は征西将軍鄧艾・鎮西将軍鍾会・雍州刺史諸葛緒に命じて数道から並んで攻め込ませ、この年に元号を炎興と改めた。冬に鄧艾が綿竹で衛将軍諸葛瞻を破ると、後主劉禅は光禄大夫譙周の策を用いて鄧艾に降伏し、書を奉った。 正史 蜀書 巻3 §43

その書の末尾で後主は、私に任じた侍中張紹・光禄大夫譙周・駙馬都尉鄧良を遣わして印綬を奉じ持たせ、命を請い誠意を告げるので、生かすも殺すもただ裁量に委ねると述べた。 正史 蜀書 巻3 §45

この日、北地王劉諶は国の滅亡を悲しんで妻子を殺し、自ら命を絶った。張紹と鄧良は雒県で鄧艾と会った。鄧艾は書を受け取って大いに喜び、すぐに返書を書いて張紹と鄧良を先に帰らせ、その後城の北に至った鄧艾のもとへ、後主は棺を車に載せ自ら身を縛って軍営の門に赴いた。後主伝ではこののち鄧良は再び現れず、巻3と巻15の評にも彼は出てこない。 正史 蜀書 巻3 §46 · 53正史 蜀書 巻15 §85

演義の描写

演義第118回で、鄧艾が綿竹を奪い諸葛瞻父子が死んだとの知らせを聞いた後主劉禅は、官僚を集めて協議する。南中へ逃れるか呉に身を寄せるかという意見が出ると、光禄大夫譙周は魏に降伏すべきだと諫める。北地王劉諶が屏風の後ろから出て譙周を叱りつけるが、後主は近臣に命じて彼を宮門の外へ押し出させ、譙周に降伏の書を作らせる。 演義 第118回 §1–4 · 7

後主は私に任じた侍中張紹と駙馬都尉鄧良を譙周とともに遣わし、玉璽を奉じて雒城へ行き降伏を請わせる。三人が階下にひれ伏して降伏の文書と玉璽を差し出すと、鄧艾は大いに喜んで張紹・譙周・鄧良らを手厚くもてなし、返書を書いて成都へ持ち帰らせ、人心を安んじさせる。 演義 第118回 §7–8

三人は成都に帰って後主に返書を差し出し、鄧艾がいかに手厚くもてなしたかを詳しく申し上げる。後主は大いに喜び、太僕蒋顕に勅書を持たせて姜維に早く降伏するよう命じさせる。演義で鄧良が出てくるのは第118回のこの二つの節だけである。 演義 第118回 §8

演義と異なる点

誰の子か:演義第118回は鄧良を駙馬都尉としてのみ登場させ、その家柄やその後の事績は記さない。陳寿の本文では鄧芝の記録の末尾に、鄧芝の子鄧良が爵位を継ぎ、景耀年間に尚書左選郎、晋の朝廷で広漢太守となったと記す。 演義 第118回 §7正史 蜀書 巻15 §9

持って行った物:演義第118回では鄧良らは玉璽を奉じて雒城へ行く。正史で後主劉禅が奉った降伏の書は、張紹・譙周・鄧良を遣わして印綬を奉じ持たせると記す。 演義 第118回 §7正史 蜀書 巻3 §45

鄧艾に会った者:演義第118回では張紹・鄧良・譙周の三人がそろって鄧艾に降伏の書と玉璽を献じ、そろって成都に帰る。正史後主伝は降伏の書に三人の名を記すが、雒県で鄧艾と会い先に帰された者としては張紹と鄧良の二人だけを記す。 演義 第118回 §7–8正史 蜀書 巻3 §45–46

帰って報告したこと:演義第118回では三人が成都に帰って鄧艾の手厚いもてなしを詳しく申し上げ、後主は大いに喜んで姜維に降伏の勅書を送る。正史後主伝は鄧艾が返書を書いて張紹と鄧良を先に帰らせたとだけ記し、二人が帰って報告した言葉は記さない。 演義 第118回 §8正史 蜀書 巻3 §46

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率3333±0
  • 武力3333±0
  • 知力4040±0
  • 政治4040±0
  • 魅力4242±0
  • 徳4242±0
  • 処世4545±0
  • 文芸4040±0
  • 弁舌5558+3
  • 用人3636±0
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

10点以上の差がある項目はありません — 演義も正史とほぼ同じように描いています。

近い項目 10件 — 根拠を見る
  • 統率正33推定演33推定 ±0

    正直接の記録なし — 駙馬都尉としての経歴から推定蜀書 巻3 §45

    演直接の記録なし — 駙馬都尉としての経歴から推定第118回 §7

  • 武力正33推定演33推定 ±0

    正直接の記録なし — 駙馬都尉としての経歴から推定蜀書 巻3 §45

    演直接の記録なし — 駙馬都尉としての経歴から推定第118回 §7

  • 知力正40推定演40推定 ±0

    正直接の記録なし — 駙馬都尉としての経歴から推定蜀書 巻3 §45

    演直接の記録なし — 駙馬都尉としての経歴から推定第118回 §7

  • 政治正40推定演40推定 ±0

    正直接の記録なし — 駙馬都尉としての経歴から推定蜀書 巻3 §45

    演直接の記録なし — 駙馬都尉としての経歴から推定第118回 §7

  • 魅力正42推定演42推定 ±0

    正直接の記録なし — 駙馬都尉としての経歴から推定蜀書 巻3 §45

    演直接の記録なし — 駙馬都尉としての経歴から推定第118回 §7

  • 徳正42推定演42推定 ±0

    正直接の記録なし — 駙馬都尉としての経歴から推定蜀書 巻3 §45

    演直接の記録なし — 駙馬都尉としての経歴から推定第118回 §7

  • 処世正45推定演45推定 ±0

    正直接の記録なし — 駙馬都尉としての経歴から推定蜀書 巻3 §45

    演直接の記録なし — 駙馬都尉としての経歴から推定第118回 §7

  • 文芸・学術正40推定演40推定 ±0

    正直接の記録なし — 駙馬都尉としての経歴から推定蜀書 巻3 §45

    演直接の記録なし — 駙馬都尉としての経歴から推定第118回 §7

  • 弁舌・外交正55演58 +3

    正印綬を奉じて鄧艾のもとへ行き降伏を請い、返書を受けて戻った蜀書 巻3 §45蜀書 巻3 §46

    演玉璽を献じて厚遇され、返書を成都へ持ち帰った第118回 §7第118回 §8

  • 識人・用人正36推定演36推定 ±0

    正直接の記録なし — 駙馬都尉としての経歴から推定蜀書 巻3 §45

    演直接の記録なし — 駙馬都尉としての経歴から推定第118回 §7

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(1回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

所属の変遷

  1. 蜀 · 演義 · 演義 第118回 「驸马都尉邓良同谯周赍玉玺来雒城请降」 · Q124719454

家族

父母鄧芝 正史

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。