正直接の記録なし — 従軍中、秭帰の敗戦で死んだ蜀書 巻15 §66
王甫
人物紹介
王甫は字を国山といい、広漢郡郪県の人である。正史には独立した伝がなく、楊戯の「季漢輔臣賛」の下に陳寿が付した注がその事績を伝える。劉璋の時に州の書佐となり、劉備が蜀を平定したのち綿竹県令を経て荊州議曹従事となった。劉備に従って呉を討ちに行き、軍が秭帰で敗れると殺害された。 正史 蜀書 巻15 §33 · 66
楊戯の賛は「国山は美しい風格があった」と述べた。演義では第73回に関羽の随軍司馬として初めて登場し、全120回のうち第73・75・76・77回の4回に登場するが、回目に名が挙がる回はない。東呉の呂蒙が荊州を呑み込もうとしているとして関羽にどうするかを問い、第77回で関羽父子の首を見て、麦城の城壁から落ちて死ぬ。 正史 蜀書 巻15 §65演義 第73回 §45演義 第75回 §43演義 第76回 §21演義 第77回 §17–18
正史の記録
王甫は字を国山といい、広漢郡郪県の人である。正史には独立した伝がない。楊戯が延熙4年(241)に著した「季漢輔臣賛」に彼が含まれており、陳寿は、賛を受けながら伝のない人々について、その賛の下に事績の始終を注として付した。 正史 蜀書 巻15 §33 · 66
その注によれば、王甫は人物を論じ評することを好んだ。劉璋の時に州の書佐となり、劉備が蜀を平定したのち綿竹県令となり、戻って荊州議曹従事となった。子の王祐は父の風格があり、官は尚書右選郎に至った。同じ賛に名を連ねる王士は同じ郪県の人で、王甫の従兄である。 正史 蜀書 巻15 §66–67 · 73
先主伝によれば、劉備は孫権が関羽を襲ったことに憤り、章武元年(221)秋7月、諸軍を率いて呉を討った。章武2年(222)6月、陸議(陸遜)が猇亭で劉備の軍を大いに破り、劉備は猇亭から秭帰に戻って離散した兵を収め集めた。賛に付された注は、王甫が劉備に従って呉を討ちに行き、軍が秭帰で敗れると殺害されたと記す。 正史 蜀書 巻2 §68 · 71正史 蜀書 巻15 §66
楊戯は賛で「国山は美しい風格があった」と述べ、ともに称えた8人を「多くの者が志を修め、蜀の芳香である」と結んだ。陳寿の評に王甫は出てこない。 正史 蜀書 巻15 §65–66 · 85
演義の描写
演義第73回で、襄陽を得た関羽が兵に褒美を与えると、随軍司馬王甫は、東呉の呂蒙が陸口に兵を置いて常に荊州を呑み込もうとしているので、まっすぐ荊州を攻めに来たらどうするのかと問う。関羽はその任を彼に委ね、長江に沿って20里か30里ごとに高い丘に烽火台を築き、台ごとに兵50人を置いて、呉軍が川を渡れば夜は火、昼は煙で知らせるようにさせる。 演義 第73回 §45
王甫はまた、麋芳と傅士仁が二つの要衝を守っているが力を尽くさないおそれがあるので、もう一人を得て荊州を総督させるべきだと言う。関羽が治中潘濬を遣わして守らせたと言うと、王甫は、潘濬は猜疑心が強く利を好むので任せられないとして、軍前都督糧料官趙累に代えるよう勧める。関羽は、潘濬はすでに決めて遣わしたので変える必要はなく、兵糧を担当する趙累の仕事も重要だとし、あまり疑わずに烽火台を築きに行けと言い、王甫は不満げな顔で退く。第75回は、公安の傅士仁が東呉に降る場面を「かつての王甫の言葉は良言であった」という句で結ぶ。 演義 第73回 §46–47演義 第75回 §40–43
第76回で関羽は、公安の傅士仁が南郡の麋芳まで呼び寄せてともに東呉に降ったと聞き、傷口が裂けて倒れる。意識を取り戻した関羽は司馬王甫を顧みて、そなたの言葉を聞かなかったことが悔やまれると言い、物見の騎兵は、呂蒙が水夫に白衣を着せて商人に扮させ、先に烽火台の兵を捕らえたため烽火を上げられなかったと報告する。 演義 第76回 §20–21
第77回で、麦城に残った兵が300余人だけとなり兵糧も尽きると、関羽は王甫に、かつて彼の言葉を聞かなかったことを悔やむと言ってどうすればよいかと問い、王甫は泣きながら、子牙が生き返っても施す計略はないだろうと答える。関羽が北門外の山中の小道から西川へ向かおうとすると、王甫は小道には伏兵があるだろうから大道を行くよう諫めるが、関羽は聞き入れない。王甫は部下百余人とともに死を賭して城を守り、城が破れても降伏しないと言い、関羽は周倉を残して王甫とともに麦城を守らせる。 演義 第77回 §3–6
関羽父子が死んだのち、麦城の王甫は、昨夜の夢で関羽が全身血まみれになって前に立っていたと言い、周倉に吉凶を問う。その時、呉軍が城下で関羽父子の首を示して降伏を勧め、城壁に上ってその首を確かめた王甫は大きく一声叫ぶと、城壁から落ちて死ぬ。周倉は自ら首をはねて死に、麦城も東呉のものとなる。 演義 第77回 §13 · 17–18
演義と異なる点
官職:演義第73回で王甫は関羽の随軍司馬、第76回では司馬と呼ばれる。正史の注では、彼は劉璋の時に州の書佐であり、劉備が蜀を平定したのち綿竹県令となり、その後荊州議曹従事となった。 演義 第73回 §45演義 第76回 §21正史 蜀書 巻15 §66
関羽への進言:演義第73回で王甫は呂蒙への備えを問い、潘濬に代えて趙累を用いるよう勧める。正史の関羽伝には王甫も烽火台も出てこない。関羽伝は、麋芳と士仁が平素から関羽に軽んじられていることを嫌っており、関羽が出兵すると軍需物資を供給しながらも力を尽くして助けなかったと記す。 演義 第73回 §45–47正史 蜀書 巻6 §1–13
麦城:演義第77回で王甫は周倉とともに麦城に残って守る。正史の呉主伝は、関羽が当陽に戻って西の麦城を保ち、偽って降伏し、城壁に旗と人形を立てたまま逃げたと記すだけで、麦城に残った者の名は挙げない。 演義 第77回 §6正史 呉書 巻2 §27–28
死:演義第77回で王甫は関羽父子が死んだのち麦城の城壁から落ちて死に、演義は関羽が死んだ時を建安24年冬12月と記す。正史の注では、王甫は劉備に従って呉を討ちに行き、軍が秭帰で敗れると殺害され、先主伝で劉備が呉討伐に出たのは章武元年(221)秋7月である。 演義 第77回 §13 · 18正史 蜀書 巻15 §66正史 蜀書 巻2 §68
出身と家族:正史の注は、王甫の字が国山で広漢郡郪県の人であり、子の王祐が尚書右選郎に至り、王士がその従兄であると記す。演義は彼の字・出身・家族を記さない。 正史 蜀書 巻15 §66–67 · 73演義 第73回 §45演義 第77回 §18
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率3845+7
- 武力3333±0
- 知力4572+27
- 政治5245−7
- 魅力5245−7
- 徳4886+38
- 処世3840+2
- 文芸4538−7
- 弁舌4045+5
- 用人5568+13
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
近い項目 7件 — 根拠を見る
正直接の記録なし — 呉討伐に従軍した事績から推定蜀書 巻15 §66
演直接の記録なし — 百余人で麦城を守った事績から推定第77回 §5
正直接の記録なし — 文官として推定蜀書 巻15 §66
演直接の記録なし — 文官の司馬として推定第77回 §5
正州の書佐・綿竹県令・荊州議曹従事を歴任した蜀書 巻15 §66
演直接の記録なし — 随軍司馬の職務から推定第73回 §47
正賛で美しい風格があったと称えられた蜀書 巻15 §65
演直接の記録なし — 関羽が彼の言葉を聞かなかったことを悔やんだ事績から推定第76回 §21
正直接の記録なし — 秭帰の敗戦で殺害された蜀書 巻15 §66
演直接の記録なし — 計略はないと言って死守を選んだ第77回 §3
正直接の記録なし — 人物の品評を好んだ文士として推定蜀書 巻15 §66
演直接の記録なし — 事績から推定第73回 §45
正直接の記録なし — 事績から推定蜀書 巻15 §66
演直接の記録なし — 諫言したが関羽を説得できなかった第73回 §46
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。
演義の登場回(4回)
登場登場なし 登場回の一覧 →