嵇康
人物紹介
嵇康は譙郡の人である。正史には単独の伝がなく、魏書巻21王粲伝の末尾に付された記事で、陳寿は彼が文辞は壮麗で、老子・荘子を好んで語り、奇を尚び任侠を自任したと記した。 正史 魏書 巻21 §29–30
景元年間(260〜264)にある事件に連座して処刑された。鍾会伝は、鍾会が司隷校尉に移った後のこととして「嵇康らが誅殺されたのは、みな鍾会の謀であった」と記す。陳寿の本文は彼の字・官職・年齢を記しておらず、巻21の評も彼に触れない。演義には登場しない。 正史 魏書 巻21 §30 · 99正史 魏書 巻28 §101
正史の記録
巻21で陳寿は、文学を好んだ文帝(曹丕)と平原侯曹植に友として親しく遇された王粲・徐幹・陳琳・阮瑀・応瑒・劉楨のことを記したのち、応瑒の弟の応璩と応璩の子の応貞がともに文章で名を上げたことを付け加え、阮瑀の子の阮籍が才藻は艶やかで秀逸であったが、何ものにも縛られず放蕩で、荘周を手本としたと記した。 正史 魏書 巻21 §9 · 26 · 28
続いて陳寿は「時にまた譙郡の嵇康がいた」と述べ、彼の文辞は壮麗で、老子・荘子を好んで語り、奇を尚び任侠を自任したと記した。そして景元年間に至って、ある事件に連座して誅殺されたと述べた。陳寿はその事件が何であったかを明らかにしていない。 正史 魏書 巻21 §29–30
鍾会伝によれば、諸葛誕の反乱を平定した功で爵位を進められても鍾会がたびたび辞退したので、詔を下してその意を聞き入れ、彼を司隷校尉に移した。鍾会は外の官職にありながら、当時の政事の損益と賞罰をすべて総べ、陳寿は「嵇康らが誅殺されたのは、みな鍾会の謀であった」と記した。 正史 魏書 巻28 §100–101
陳寿の本文は嵇康の字・官職・年齢・処刑された年を記していない。巻21末尾の評は王粲ら六人と衞覬・劉劭・劉廙・傅嘏について述べるだけで、嵇康には触れない。 正史 魏書 巻21 §30 · 99
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。
- 統率31
- 武力33
- 知力45
- 政治31
- 魅力52
- 徳50
- 処世35
- 文芸82
- 弁舌45
- 用人35
項目別の根拠
正直接の記録なし魏書 巻21 §30
正直接の記録なし — 任侠を自任したという記録から推定魏書 巻21 §30
正直接の記録なし — 老荘を好んで論じた事績から推定魏書 巻21 §30
正直接の記録なし魏書 巻21 §30
正直接の記録なし — 文名から推定魏書 巻21 §30
正直接の記録なし — 奇を尚び任侠を自任した魏書 巻21 §30
正直接の記録なし — 鍾会の謀によって連座し処刑された魏書 巻21 §30魏書 巻28 §101
正文辞は壮麗で、老子・荘子を好んで論じた魏書 巻21 §30
正直接の記録なし — 老荘を好んで語った事績から推定魏書 巻21 §30
正直接の記録なし魏書 巻21 §30
正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。
所属の変遷
- 魏 推定 · 正史 · 「至景元中,坐事誅」