阮瑀
人物紹介
阮瑀は字を元瑜といい、陳留の人である。若いころ蔡邕に学び、建安年間に都護曹洪が文書・記録を担当させようとしたが、ついに屈しなかった。 正史 魏書 巻21 §9 · 17
曹操は彼を陳琳とともに司空軍謀祭酒として記室を担当させ、軍事・国事の文書と檄文の大半は二人が作った。のちに倉曹掾属となり、建安17年(212)に死去した。子の阮籍も才能と文才で名を知られた。 正史 魏書 巻21 §17 · 20 · 28
正史には独立した伝がなく、王粲の伝に付されている。曹丕は呉質に送った手紙で「元瑜の書簡と記録は軽やかで、大いに楽しむに足る」と言い、陳寿は評で王粲ら六人が最も名が知られたと述べた。演義には登場しない。 正史 魏書 巻21 §16 · 21 · 99
正史の記録
阮瑀は字を元瑜といい、陳留の人である。正史は彼を王粲の伝に付して記している。はじめ文帝曹丕が五官将であったとき、平原侯曹植とともにみな文学を好み、王粲は北海の徐幹、広陵の陳琳、陳留の阮瑀、汝南の応瑒、東平の劉楨とともに、みな友として親しく遇された。 正史 魏書 巻21 §9 · 16
阮瑀は若いころ蔡邕に学んだ。建安年間、都護曹洪が彼に文書・記録を担当させようとしたが、阮瑀はついに屈しなかった。太祖曹操は陳琳と阮瑀をともに司空軍謀祭酒として記室を担当させ、軍事・国事の文書と檄文の大半は陳琳と阮瑀が作ったものであった。陳琳は門下督に移り、阮瑀は倉曹掾属となった。 正史 魏書 巻21 §17
阮瑀は建安17年(212)に死に、徐幹・陳琳・応瑒・劉楨は22年(217)に死んだ。文帝は元城令呉質に送った手紙で、昨年疫病がはやって徐幹・陳琳・応瑒・劉楨が一時に世を去ったと言い、彼らの文章を一つずつ挙げて「元瑜の書簡と記録は軽やかで、大いに楽しむに足る」と評した。手紙は、諸君はただ古人に及ばなかっただけで、それでも一時代の俊才であったという言葉で結ばれる。 正史 魏書 巻21 §20–22
阮瑀の子阮籍は才能と文才が華やかで優れていたが、拘束を受けず放縦であり、身の処し方は欲が少なく、荘周を手本とした。官は歩兵校尉に至った。 正史 魏書 巻21 §28
陳寿は王粲らを収めた巻の評で、文帝と陳王が公子の尊い身分で文采を広く好んだので才士が並び出たが、そのうち王粲ら六人が最も名が知られたと述べた。 正史 魏書 巻21 §99
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。
- 統率31
- 武力31
- 知力45
- 政治45
- 魅力50
- 徳58
- 処世45
- 文芸82
- 弁舌45
- 用人38
項目別の根拠
正直接の記録なし — 記室の文官であったことから推定魏書 巻21 §17
正直接の記録なし — 記室の文官であったことから推定魏書 巻21 §17
正直接の記録なし — 記室の文官であったことから推定魏書 巻21 §17
正直接の記録なし — 倉曹掾属の職から推定魏書 巻21 §17
正曹丕・曹植に友として親しく遇された魏書 巻21 §9
正曹洪が文書を任せようとしたが、ついに屈しなかった魏書 巻21 §17
正直接の記録なし — 記室の文官であったことから推定魏書 巻21 §17
正蔡邕に学び軍国の檄文を作り、書簡は楽しむに足ると評された魏書 巻21 §17魏書 巻21 §21
正直接の記録なし — 檄文の作成から推定魏書 巻21 §17
正直接の記録なし — 記室の文官であったことから推定魏書 巻21 §17
正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。