阮籍

正史 魏 字 嗣宗 Ruan JiSizong완적사종

プロフィール
職業正学者 · 歩兵校尉所属魏
登場正収録魏書
出生出身地陳留郡
死因正自然死 推定
実在実在言及正5回

人物紹介

阮籍は陳留の人阮瑀の子である。正史には独立した伝がなく、魏書巻21王衛二劉傅伝で阮瑀ら文人の記事の後に短く付されている。陳寿は、彼が才藻は艶やかで秀逸であったが、何ものにも縛られず放蕩で、身の処し方は欲が少なく、荘周を手本としたと記した。官は歩兵校尉に至った。 正史 魏書 巻21 §9 · 27–28

陳寿の本文は彼の字と年齢、死んだ年を記しておらず、巻21末尾の評も彼に触れない。演義には登場しない。 正史 魏書 巻21 §28 · 99

正史の記録

巻21で陳寿は、文帝(曹丕)が五官将であったとき、平原侯曹植とともにみな文学を好み、王粲が北海の徐幹、広陵の陳琳、陳留の阮瑀、汝南の応瑒、東平の劉楨とともに友として親しく遇されたと記した。 正史 魏書 巻21 §9

阮籍の父阮瑀は若いころ蔡邕に学んだ。建安年間、都護曹洪が彼に文書・記録を担当させようとしたが、ついに屈しなかった。太祖(曹操)は陳琳と阮瑀をともに司空軍謀祭酒として記室を担当させ、軍事・国事の文書と檄文の大半は二人が作ったものであった。阮瑀はのちに倉曹掾属となり、建安17年(212)に死去した。 正史 魏書 巻21 §17 · 20

陳寿は、応瑒の弟の応璩と応璩の子の応貞がともに文章で名を上げたと記したのち、阮籍を付け加えた。阮瑀の子阮籍は、才藻は艶やかで秀逸であったが、何ものにも縛られず放蕩で、身の処し方は欲が少なく、荘周を手本とした。官は歩兵校尉に至った。続いて陳寿は「時にまた譙郡の嵇康がいた」として嵇康を記した。 正史 魏書 巻21 §26–28 · 30

陳寿の本文で阮籍はこの一か所にしか登場せず、その字と年齢、死んだ年と死に方は記されていない。巻21末尾の評は王粲ら六人と衞覬・劉劭・劉廙・傅嘏について述べるだけで、阮籍には触れない。 正史 魏書 巻21 §28 · 99

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史
  • 統率35
  • 武力31
  • 知力45
  • 政治38
  • 魅力45
  • 徳50
  • 処世50
  • 文芸80
  • 弁舌40
  • 用人38
各項目100点

項目別の根拠

  • 統率正35推定

    正直接の記録なし — 歩兵校尉という官職から推定魏書 巻21 §28

  • 武力正31推定

    正直接の記録なし — 歩兵校尉という官職から推定魏書 巻21 §28

  • 知力正45推定

    正直接の記録なし — 歩兵校尉という官職から推定魏書 巻21 §28

  • 政治正38推定

    正直接の記録なし — 歩兵校尉という官職から推定魏書 巻21 §28

  • 魅力正45推定

    正直接の記録なし — 歩兵校尉という官職から推定魏書 巻21 §28

  • 徳正50

    正欲は少なかったが、何ものにも縛られず放蕩であった魏書 巻21 §28

  • 処世正50

    正荘周を手本とし、官は歩兵校尉に至った魏書 巻21 §28

  • 文芸・学術正80

    正才藻は艶やかで秀逸であったと記録される魏書 巻21 §28

  • 弁舌・外交正40推定

    正直接の記録なし — 歩兵校尉という官職から推定魏書 巻21 §28

  • 識人・用人正38推定

    正直接の記録なし — 歩兵校尉という官職から推定魏書 巻21 §28

正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

所属の変遷

  1. 魏 · 正史 · 正史 巻21 「官至步兵校尉」

家族

父母阮瑀 正史

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。

関連作品(1)

Wikidataの描写対象・題名の人物名で連結(推定) — 検収前。