劉瓚

正史演義 蜀 Liu Zan유찬刘瓒

プロフィール
職業正その他 · 新平王所属蜀
登場正演収録
出生出身地涿郡 涿県 推定
実在実在言及正1回

人物紹介

劉瓚は蜀漢の後主の子である。陳寿の本文には独立した伝がなく、後主伝に一度登場する。延熙19年(256)、姜維が上邽で鄧艾に破られて成都に帰還した年に、新平王に立てられた。呉の将の留賛とは別人である。 正史 蜀書 巻3 §36

陳寿の本文は彼の字・母・年齢とその後のことを記さず、彼が登場する後主伝の評も彼を扱っていない。演義では第118回に後主の七人の子のうち四男として名だけが出て、全120回のうち1回に登場し、回目に名が見える回はない。 正史 蜀書 巻3 §36 · 53演義 第118回 §4

正史の記録

延熙19年(256)春、後主は姜維の位を進めて大将軍とし、軍馬を監督させた。姜維は鎮西将軍胡済と上邽で落ち合う約束をしたが、胡済は約束を破って来ず、秋8月、姜維は上邽で魏の大将軍鄧艾に破られ、軍を引いて成都に戻った。この年、後主は子の劉瓚を新平王に立て、大赦を行った。 正史 蜀書 巻3 §36

陳寿の本文は彼の字と母、そのときの年齢を明らかにしていない。後主の妻妾と子を載せる二主妃子伝にも彼の項目はない。二主妃子伝の皇子の項は、先主の子の劉永・劉理と後主の太子劉璿だけを載せている。 正史 蜀書 巻3 §36正史 蜀書 巻4 §16–25

後主の他の子たちも後主伝で次々と太子や王に立てられている。延熙元年(238)春正月には劉璿を太子に、劉瑤を安定王に立て、15年(252)には劉琮を西河王に、景耀2年(259)夏6月には劉諶を北地王に、劉恂を新興王に、劉虔を上党王に立てた。西河王劉琮は景耀5年(262)春正月に死去した。陳寿の本文はこれらの子の長幼の順を明らかにしていない。 正史 蜀書 巻3 §19 · 32 · 39 · 42

景耀6年(263)冬、蜀が滅んだ。後主は光禄大夫譙周の策を用いて鄧艾に降伏し、この日、北地王劉諶は国が滅んだことを悲しんで、まず妻子を殺してから自ら命を絶った。後主の一家は挙げて東の洛陽に移り、陳寿は子孫のうち三都尉となったり侯に封じられたりした者が50人余りいたと記すだけで、劉瓚の名は挙げていない。 正史 蜀書 巻4 §25正史 蜀書 巻3 §43 · 46 · 48 · 52

後主伝の評で、陳寿は、後主は賢相に任せていたときは理に従う君主であったが、宦官に惑わされると暗愚な君主になったと論じるだけで、劉瓚を扱っていない。 正史 蜀書 巻3 §53

演義の描写

演義第118回で、鄧艾が綿竹を奪い諸葛瞻父子がすでに死んだという知らせが成都に届くと、官員たちは南中の七郡へ逃れるか、呉に身を寄せるかを議論する。光禄大夫譙周は、呉に身を寄せるより魏に降るほうがよいと言い、翌日さらに上疏して諫める。後主が譙周の言に従って出て降伏しようとすると、屏風の後ろから五男の北地王劉諶が出てきて譙周を叱りつける。 演義 第118回 §1–4

演義はこの場面で後主の七人の子を挙げる。長男は劉璿、次男は劉瑤、三男は劉琮、四男は劉瓚、五男が北地王劉諶、六男は劉恂、七男は劉璩である。七人の子のうちただ劉諶だけが幼い頃から聡明で英敏さが人に抜きんでており、残りはみな軟弱で柔順であったという。演義で劉瓚の名が出るのはこの一度だけである。 演義 第118回 §4–5

翌日、魏軍が大挙して到着すると、後主は太子と諸王、臣下60人余りを率い、自ら後ろ手に縛り、棺を車に載せて北門の外10里まで出て降伏する。 演義 第118回 §13

演義と異なる点

新平王:陳寿の本文では、劉瓚は延熙19年(256)に新平王に立てられた。演義は第118回に名を一度挙げるだけで、彼が新平王に封じられたことは記していない。 正史 蜀書 巻3 §36演義 第118回 §4

兄弟と順序:演義第118回は劉瓚を四男として挙げる。陳寿の本文の後主伝には劉璿・劉瑤・劉琮・劉瓚・劉諶・劉恂・劉虔を太子や王に立てた記録があるだけで兄弟の順序はなく、劉璩は登場しない。 演義 第118回 §4正史 蜀書 巻3 §19 · 32 · 36 · 39

人となり:演義第118回は、七人の子のうち劉諶だけが聡明で英敏であり、残りはみな軟弱で柔順であったと記す。陳寿の本文には劉瓚の人となりは記されていない。 演義 第118回 §5正史 蜀書 巻3 §36

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率3131±0
  • 武力3131±0
  • 知力3535±0
  • 政治3535±0
  • 魅力4040±0
  • 徳4545±0
  • 処世3838±0
  • 文芸3535±0
  • 弁舌3131±0
  • 用人3131±0
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

10点以上の差がある項目はありません — 演義も正史とほぼ同じように描いています。

近い項目 10件 — 根拠を見る
  • 統率正31推定演31推定 ±0

    正直接の記録なし — 新平王に封じられた皇子であることから推定蜀書 巻3 §36

    演直接の記録なし — 後主の四男という皇族の身分から推定第118回 §4

  • 武力正31推定演31推定 ±0

    正直接の記録なし — 新平王に封じられた皇子であることから推定蜀書 巻3 §36

    演直接の記録なし — 後主の四男という皇族の身分から推定第118回 §4

  • 知力正35推定演35推定 ±0

    正直接の記録なし — 新平王に封じられた皇子であることから推定蜀書 巻3 §36

    演直接の記録なし — 後主の四男という皇族の身分から推定第118回 §4

  • 政治正35推定演35推定 ±0

    正直接の記録なし — 新平王に封じられた皇子であることから推定蜀書 巻3 §36

    演直接の記録なし — 後主の四男という皇族の身分から推定第118回 §4

  • 魅力正40推定演40推定 ±0

    正直接の記録なし — 新平王に封じられた皇子であることから推定蜀書 巻3 §36

    演直接の記録なし — 後主の四男という皇族の身分から推定第118回 §4

  • 徳正45推定演45推定 ±0

    正直接の記録なし — 新平王に封じられた皇子であることから推定蜀書 巻3 §36

    演直接の記録なし — 後主の四男という皇族の身分から推定第118回 §4

  • 処世正38推定演38推定 ±0

    正直接の記録なし — 新平王に封じられた皇子であることから推定蜀書 巻3 §36

    演直接の記録なし — 後主の四男という皇族の身分から推定第118回 §4

  • 文芸・学術正35推定演35推定 ±0

    正直接の記録なし — 新平王に封じられた皇子であることから推定蜀書 巻3 §36

    演直接の記録なし — 後主の四男という皇族の身分から推定第118回 §4

  • 弁舌・外交正31推定演31推定 ±0

    正直接の記録なし — 新平王に封じられた皇子であることから推定蜀書 巻3 §36

    演直接の記録なし — 後主の四男という皇族の身分から推定第118回 §4

  • 識人・用人正31推定演31推定 ±0

    正直接の記録なし — 新平王に封じられた皇子であることから推定蜀書 巻3 §36

    演直接の記録なし — 後主の四男という皇族の身分から推定第118回 §4

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(1回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

所属の変遷

  1. 蜀 · 演義 · 演義 第63回 「刘瓒引兵杀出,却得玄德在后当住接应」 · Q124718850

家族

父母劉禅 演義
兄弟姉妹劉璿 演義, 劉諶 演義, 劉瑤 演義, 劉璩 演義, 劉恂 演義

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。