諸葛均
人物紹介
諸葛均は諸葛亮の弟である。早くに父を亡くした諸葛亮とともに叔父の諸葛玄に従って豫章太守の任地に赴き、官は長水校尉に至った。正史には独立した伝がなく、諸葛亮伝に二度名が見えるだけで、生年と没年は記されていない。 正史 蜀書 巻5 §2 · 43
演義では第36回、徐庶が諸葛亮を推挙して、諸葛亮が弟の諸葛均とともに南陽で自ら畑を耕していたと語る箇所に初めて名が見える。第37回では二度目に訪ねてきた劉備を草堂で迎えて兄の不在を告げ、手紙を預かり、第38回では劉備に従って山を出る諸葛亮から、残って畑を守るよう言いつけられる。 演義 第36回 §34演義 第37回 §34–35 · 39演義 第38回 §21
演義120回のうち第36・37・38回の3回に名が見え、回目に名が入った回はない。 演義 第36回 §34演義 第37回 §35演義 第38回 §24
正史の記録
諸葛均の兄諸葛亮は琅邪国陽都県の人で、漢末に太山郡丞を務めた父の諸葛珪を早くに亡くした。叔父の諸葛玄が袁術によって豫章太守に任じられると、諸葛玄は諸葛亮と諸葛亮の弟諸葛均を連れて任地に赴いた。たまたま漢の朝廷があらためて朱皓を選んで諸葛玄に代えたので、諸葛玄はかねて旧交のあった荊州牧劉表のもとへ行って身を寄せた。 正史 蜀書 巻5 §2
陳寿は諸葛亮伝の末尾で、景耀6年(263)春に沔陽に諸葛亮の廟を立てたことと、その年の秋に鍾会がその廟を祭ったことを記したのち、諸葛亮の弟諸葛均は官が長水校尉に至ったと記した。諸葛均がいつその官に就いたのか、いつ死んだのかは明らかにしていない。 正史 蜀書 巻5 §43
演義の描写
演義第36回で徐庶は劉備に諸葛亮を推挙し、その来歴を語る。諸葛亮は叔父の諸葛玄に従ったが、諸葛玄は荊州の劉景升(劉表)と旧交があったので彼を頼って行き、襄陽に家を構えた。諸葛玄が死んだのち、諸葛亮は弟の諸葛均とともに南陽で自ら畑を耕し、住む所の岡の名が臥龍岡であったことから自ら臥龍先生と号したという。 演義 第36回 §33–34
第37回で劉備は関羽・張飛とともに、真冬の風雪の中を二度目に諸葛亮を訪ねる。童子に従って中門まで来た劉備は、草堂の上で一人の若者が炉に当たり膝を抱いて、鳳凰は梧桐でなければ棲まず、士は主でなければ頼らないと歌っているのを見る。歌が終わると劉備は草堂に上がって礼を尽くし、久しく慕ってきたと言うが、若者は慌てて答礼し、兄に会いに来られた劉豫州ではないかと尋ねる。 演義 第37回 §26 · 32–34
若者は、自分は臥龍の弟諸葛均であり、兄弟三人のうち長兄の諸葛瑾は江東の孫仲謀(孫権)のもとで幕賓となっており、孔明は次兄であると明かす。臥龍は昨日崔州平と約束があって出かけたが、小舟を操って江や湖をさまよったり、山の峰に僧や道士を訪ねたりもして、行き来は測りがたく、行き先はわからないという。劉備が二度も大賢に会えないと嘆くと、諸葛均はしばらくお掛けになればお茶を差し上げますと言い、兄上は兵法と計略に通じていると聞くが聞かせてもらえるかという劉備の問いには、存じませんとだけ答える。 演義 第37回 §35–36
張飛が風雪が激しいので早く帰ろうと言う中、諸葛均は、兄が留守なので長くお引き留めするわけにはいかず、後日答礼に伺いますと言う。劉備は数日後にまた来ると言って紙と筆を借りて手紙を書き、書き終えた手紙を諸葛均に渡して預からせてから別れを告げる。見送りに出た諸葛均は、驢馬に乗って詩を吟じながら来る人をまことの臥龍だと思って馬を下りて礼を尽くす劉備に、この方は兄ではなく兄の舅の黄承彦だと後ろから教える。 演義 第37回 §37 · 39 · 41–42
第38回で劉備は関羽・張飛とともに三度目に隆中を訪ね、草廬から半里離れた所から馬を下りて歩いていて諸葛均に出会う。兄上はご在宅かという問いに、諸葛均は昨日の夕方にようやく帰ってきたので今日はお会いになれるでしょうと言い、飄然と自分の道を去ってしまう。張飛は家まで案内してもよいものを勝手に行ってしまったと無礼をなじるが、劉備は、それぞれに用事があるのだから無理強いはできないと言う。 演義 第38回 §4–5
山を出ることにした諸葛亮は、翌日諸葛均が帰ってくると、劉皇叔に三度も訪ねていただいた恩を受けたからには出ないわけにはいかないと言い、ここで自ら畑を耕して田畑を荒れさせないように、功を成した日にはすぐ帰って隠棲すると言いつける。劉備ら三人は諸葛均と別れ、諸葛亮とともに新野へ帰る。演義で諸葛均の名が見えるのはこれが最後である。 演義 第38回 §19 · 21 · 24
演義と異なる点
豫章に赴いたこと:演義第36回で徐庶は、諸葛亮が叔父の諸葛玄に従い、諸葛玄が劉景升(劉表)を頼って行って襄陽に家を構えたとだけ語る。正史では、それに先立って諸葛玄が豫章太守に任じられ、諸葛亮と弟の諸葛均を連れて任地に赴いた。 演義 第36回 §33正史 蜀書 巻5 §2
南陽での耕作:演義第36回では、諸葛亮が弟の諸葛均とともに南陽で自ら畑を耕したという。正史では、諸葛玄が死ぬと諸葛亮が自ら畑を耕して『梁父吟』を好んで歌ったとするだけで、この箇所に諸葛均は出てこない。 演義 第36回 §34正史 蜀書 巻5 §3
三兄弟:演義第37回で諸葛均は、兄弟は三人で、長兄の諸葛瑾は江東の孫仲謀(孫権)のもとで幕賓となっており、孔明は次兄だと言う。陳寿の本文は諸葛瑾を諸葛亮の兄として、諸葛均を諸葛亮の弟として別々に記すだけで、三兄弟をひとまとめにして語らず、諸葛瑾は魯粛らとともに孫権の賓客として遇され、のちに長史となった。 演義 第37回 §35正史 蜀書 巻5 §56 · 43正史 呉書 巻7 §51
二度目の訪問:演義第37回で劉備は二度目に訪ねて諸葛亮の代わりに諸葛均に会い、手紙を書いて彼に預ける。正史諸葛亮伝は、先主が都合三度行ってようやく会えたと記すだけで、諸葛均と手紙は出てこない。 演義 第37回 §35 · 39正史 蜀書 巻5 §4
三度目の訪問:演義第38回で劉備は草廬から半里離れた所で諸葛均に会い、兄が昨日の夕方に帰ってきたと聞く。正史諸葛亮伝にはこの出会いがない。 演義 第38回 §4正史 蜀書 巻5 §4
残る弟への言いつけ:演義第38回で諸葛亮は山を出るにあたり、諸葛均に田畑を荒れさせないよう、功を成したら帰って隠棲すると言いつける。正史諸葛亮伝にはこの言いつけがない。 演義 第38回 §21正史 蜀書 巻5 §1–54
官職:演義で諸葛均は第38回を最後に登場せず、官職も記されていない。正史では官が長水校尉に至った。 演義 第38回 §24正史 蜀書 巻5 §43
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能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率4231−11
- 武力3831−7
- 知力4038−2
- 政治4038−2
- 魅力3838±0
- 徳4252+10
- 処世4245+3
- 文芸3842+4
- 弁舌3540+5
- 用人3535±0
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
近い項目 8件 — 根拠を見る
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。