劉循

正史演義 Liu Xun유순刘循

プロフィール
職業正武将 · 奉車中郎将所属
登場正演収録
出生出身地江夏郡 竟陵県 推定
実在実在言及正2回

人物紹介

劉循は益州牧劉璋の長男である。正史に独立した伝はなく、劉二牧伝と先主伝に短く見える。劉備が雒県を包囲したとき城を守り、攻撃を受けてほぼ1年となって、建安19年(214)夏に雒城は陥落した。 正史 蜀書 巻1 §19正史 蜀書 巻2 §32–33

妻は龐羲の娘である。劉備が蜀を平定したのち、劉璋が龐羲を通じて劉循を残してほしいと願うと、劉備は彼を奉車中郎将とした。このため、呉へ行った劉闡とあわせて、劉璋の二人の息子の子孫は呉と蜀に分かれることになった。 正史 蜀書 巻1 §19

演義では第62回に初めて登場し、全120回のうち2回(第62・64回)に登場するが、回目に名が入る回はない。第62回で自ら申し出て雒城を守りに行き、第64回で城が陥落すると西門を開いて抜け出し、成都へ逃げる。 演義 第62回 §48演義 第64回 §26

正史の記録

劉備が涪県を占拠すると、劉璋は劉璝・泠苞・張任・鄧賢らを送って涪県で防がせたが、皆敗れて退き綿竹を守り、綿竹の諸軍を監督しに行った李厳は配下を率いて劉備に降った。劉備は軍を進めて雒県を包囲した。このとき劉璋の子劉循が城を守っていたが、攻撃を受けてほぼ1年になった。 正史 蜀書 巻2 §32

建安19年(214)夏に雒城が陥落すると、劉備は進んで成都を数十日にわたって包囲し、劉璋は出て降伏した。劉備は劉璋を南郡公安に移し、その財物と、以前帯びていた振威将軍の印綬をすべて返した。 正史 蜀書 巻2 §33正史 蜀書 巻1 §18

劉璋の長男劉循の妻は龐羲の娘であった。劉備が蜀を平定すると龐羲は左将軍司馬となったが、劉璋はそのとき龐羲を通じて劉循を残してほしいと願い、劉備は劉循を奉車中郎将とした。劉璋のもう一人の子劉闡は、劉璋の死後、孫権から益州刺史を授けられて交州と益州の境にとどまり、のちに呉に帰って御史中丞となった。このため劉璋の二人の息子の子孫は呉と蜀に分かれることになった。 正史 蜀書 巻1 §19

演義の描写

演義第62回で、泠苞が雒城に戻ったのち劉璝が成都に救援を求めると、鄧賢を失ったという知らせに大いに驚いた劉璋は、慌ただしく衆を集めて協議する。このとき長男の劉循が進み出て、自分が兵を率いて行き雒城を守ると言う。劉璋が誰を送って補佐させるかと問うと、呉懿が行くと名乗り出て、呉懿は呉蘭と雷銅を副将に推し、軍馬2万を点呼して雒城に至る。 演義 第62回 §48–49

第64回で張任が偽って負けて敵を誘い込む計を出すと、呉懿は劉璝に公子を助けて城を守るよう言い、自らは兵を率いて出て戦いを助けるが、趙雲にわずか一合で生け捕られる。降伏した呉懿は諸葛亮に、城内には劉季玉の子劉循がおり、補佐する将として劉璝と張任がいると告げる。 演義 第64回 §12–14 · 16

金雁橋の戦いの末に捕らえられた張任が斬られた翌日、厳顔・呉懿ら蜀から降った武将たちが先鋒となり、雒城の前で降伏を呼びかける。城上で罵る劉璝を一人の将が剣で斬り倒し、城門を開いて降伏するが、それは武陽の人張翼である。劉備の軍馬が雒城に入ると、劉循は西門を開いて抜け出し、成都へ逃げる。 演義 第64回 §22–24 · 26

劉循は父に会って雒城が陥落したと告げ、劉璋は慌てて官員たちを集めて協議する。従事の鄭度が、巴西と梓潼の民を涪水の西へ追い立てて渡らせ、倉庫と野の穀物を焼き払ったうえで固く守ろうと言うが、劉璋は、敵を防いで民を安んじるとは聞いたが、民を動かして敵に備えるとは聞いたことがないと言って従わない。演義はこののち劉循の名を再び挙げない。 演義 第64回 §29–30

演義と異なる点

雒城を守ることになった経緯:演義第62回では劉循が自ら申し出て雒城を守ると言い、劉璋は呉懿を付けて送る。正史の先主伝は、劉備が雒県を包囲したとき劉璋の子劉循が城を守っていたと記すだけで、彼がどのようにしてそこへ行くことになったかは記さない。 演義 第62回 §48–49正史 蜀書 巻2 §32

雒城陥落:演義第64回では張翼が劉璝を斬って城門を開いて降伏すると、劉循は西門から抜け出して成都へ逃げる。正史の先主伝は、雒城がほぼ1年にわたって攻撃を受け、建安19年(214)夏に陥落したと記すだけで、城が陥落した経緯や劉循が成都へ逃げたという話はない。 演義 第64回 §26正史 蜀書 巻2 §32–33

降伏後の身の置き所:演義第65回で劉璋は妻子と良民・賤民をことごとく引き連れて南郡公安へ行き、演義は劉循がどうなったかを記さない。正史では劉璋は公安に移されたが、劉璋が龐羲を通じて願い出たので、劉循は蜀に残って奉車中郎将となった。 演義 第65回 §45正史 蜀書 巻1 §18–19

龐羲との婚姻:正史は劉循の妻が龐羲の娘であったと記す。演義で龐羲は第59回と第65回に登場するが、劉循の舅であるという話はない。 正史 蜀書 巻1 §19演義 第59回 §51演義 第65回 §46

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率5538−17
  • 武力4035−5
  • 知力3835−3
  • 政治3835−3
  • 魅力4038−2
  • 徳4250+8
  • 処世4242±0
  • 文芸3535±0
  • 弁舌3535±0
  • 用人3333±0
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

近い項目 9件 — 根拠を見る
  • 武力正40推定演35推定 −5

    正直接の記録なし — 雒城を守った行跡から推定蜀書 巻2 §32

    演直接の記録なし — 事績から推定第62回 §48

  • 知力正38推定演35推定 −3

    正直接の記録なし — 雒城を守った行跡から推定蜀書 巻2 §32

    演直接の記録なし — 事績から推定第62回 §48

  • 政治正38推定演35推定 −3

    正直接の記録なし — 劉璋の長男という地位から推定蜀書 巻1 §19

    演直接の記録なし — 劉璋の長男という地位から推定第62回 §48

  • 魅力正40推定演38推定 −2

    正直接の記録なし — 劉璋の長男という地位から推定蜀書 巻1 §19

    演直接の記録なし — 事績から推定第62回 §48

  • 徳正42推定演50 +8

    正直接の記録なし — 劉璋の長男という地位から推定蜀書 巻1 §19

    演父のために自ら申し出て雒城を守りに行った第62回 §48

  • 処世正42推定演42 ±0

    正直接の記録なし — 蜀平定後に留まって奉車中郎将となった行跡から推定蜀書 巻1 §19

    演雒城が陥落すると西門から抜け出して成都へ逃げた第64回 §26第64回 §29

  • 文芸・学術正35推定演35推定 ±0

    正直接の記録なし — 劉璋の長男という地位から推定蜀書 巻1 §19

    演直接の記録なし — 事績から推定第62回 §48

  • 弁舌・外交正35推定演35推定 ±0

    正直接の記録なし — 劉璋の長男という地位から推定蜀書 巻1 §19

    演直接の記録なし — 事績から推定第64回 §29

  • 識人・用人正33推定演33推定 ±0

    正直接の記録なし — 劉璋の長男という地位から推定蜀書 巻1 §19

    演直接の記録なし — 事績から推定第62回 §48

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(2回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

家族

父母劉璋 演義・正史

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。

関連事件(2)

ウィキペディア情報ボックス・原文キーワードの自動照合(推定)を含みます。