何植

正史演義 呉 He Zhi하식

プロフィール
職業正演文官 · 司徒所属呉
登場正演収録
出生出身地丹陽郡 句容県 推定
実在実在言及正4回

人物紹介

何植は呉の司徒である。正史には独立した伝がなく、呉書巻5の妃嬪伝の何姬の記録に、孫和の姫妾何姬の弟として登場する。何姬の子孫皓が即位したのち宣城侯に封じられ、官は大司徒に至った。 正史 呉書 巻5 §35–36

呉書巻3の三嗣主伝は、鳳皇3年(274)に彼を三郡督として派遣し臨海太守奚熙を捕らえさせ、天紀3年(279)8月には牛渚都督であった彼を司徒にしたと記す。陳寿の本文は彼の字と生没を記さない。 正史 呉書 巻3 §64 · 67 · 74–75

独立した伝がないため、陳寿の評も彼を論じていない。演義では第120回にのみ登場し、120回のうち1回に登場し、回目に名が入った回はない。晋軍が大挙して攻め込むと、孫皓が退兵の策を議するために急ぎ召し出した丞相張悌・司徒何植・司空滕循のうちに名が挙がる。 演義 第120回 §35

正史の記録

呉書巻5の妃嬪伝の何姬の記録によれば、孫和の姫妾何氏は丹楊郡句容の人で、父の何遂はもと騎士であった。孫権が諸営を巡幸したとき、道端で見物していた何姬を遠くから見て非凡に思い、宦官に命じて召し入れさせ、子の孫和に賜った。何姬が生んだ子が孫皓である。孫峻が孫和を新都に移して死を賜ると、正妃の張氏も自ら命を絶ったが、何姬はみな後を追って死んだら誰がこの孤児たちを育てるのかと言い、孫皓とその三人の弟をいつくしみ育てた。 正史 呉書 巻5 §35–36

孫皓が即位すると、孫和を昭献皇帝に、何姬を昭献皇后に尊び、1か月余りののち皇太后に進めた。そして何姬の弟の何洪を永平侯に、何蔣を溧陽侯に、何植を宣城侯に封じた。何洪が死ぬと子の何邈が跡を継いだが、武陵監軍となったのち晋に殺された。何植は官が大司徒に至った。 正史 呉書 巻5 §36

妃嬪伝は続けて、呉の末期に政治が暗く乱れると何氏一族が驕り高ぶって分を越え、その子弟がほしいままに振る舞って民が苦しんだので、民の間に孫皓はとうに死んでおり、即位しているのは何氏の子だというデマが流れたと記す。陳寿の本文は、何氏一族の誰がそうであったかを明らかにしていない。 正史 呉書 巻5 §37

鳳皇3年(274)、会稽で章安侯孫奮が天子になるという妖言が流れた。臨海太守奚熙が会稽太守郭誕に書簡を送って国政を非難したが、郭誕は奚熙の書簡だけを報告して妖言は報告しなかったので、建安に送られて造船に従事させられた。朝廷は三郡督何植を派遣して奚熙を捕らえさせ、奚熙は兵を起こして自衛し、海路を断った。奚熙の部曲が奚熙を殺してその首を建業に送り、その三族を滅ぼした。 正史 呉書 巻3 §64 · 67

天紀3年(279)夏、郭馬が反乱し、都督交広二州諸軍事・安南将軍を自称した。8月、軍師張悌を丞相に、牛渚都督何植を司徒にした。執金吾滕循を司空にしたが、拝命する前に鎮南将軍に移して広州牧を兼ねさせ、1万人を率いて東の道から郭馬を討たせた。 正史 呉書 巻3 §74–75

その年の冬、晋の諸軍が呉に向かい、翌天紀4年(280)3月に孫皓が降伏した。陳寿の本文は、この間に何植がしたことを記さない。 正史 呉書 巻3 §78 · 81–84

演義の描写

演義第120回で、晋主司馬炎は杜預を大都督として江陵に進ませ、諸将を諸方面に送り出し、王濬と唐彬には長江に沿って東へ下らせ、水陸の兵は20万余りに及ぶ。この知らせが東呉に伝わると、呉主孫皓は大いに慌て、丞相張悌・司徒何植・司空滕循を急ぎ召して退兵の策を議する。 演義 第120回 §33–35

この席で張悌は、車騎将軍伍延を都督として江陵で杜預を迎え撃たせ、驃騎将軍孫歆に夏口などの軍馬を防がせ、自らは軍師となって左将軍沈瑩と右将軍諸葛靚を率い、兵10万で牛渚に進むと奏上し、孫皓はこれに従う。演義はこの議論で何植が言ったことを記さず、以後何植は登場しない。 演義 第120回 §35–36

演義と異なる点

家柄:演義第120回は何植を司徒と呼ぶだけで、孫皓の母何姬の弟であることは出てこない。正史の妃嬪伝は彼を何姬の弟と記し、孫皓が即位したのち宣城侯に封じられたとする。 演義 第120回 §35正史 呉書 巻5 §36

奚熙を捕らえた件:演義にはこの件がない。正史の三嗣主伝では、鳳皇3年(274)に三郡督何植が臨海太守奚熙を捕らえるために派遣され、奚熙は部曲に殺された。 演義 第120回 §35正史 呉書 巻3 §67

晋軍を防ぐ議論:演義第120回では、孫皓が丞相張悌・司徒何植・司空滕循を召して議する。正史の三嗣主伝にはこの議論はなく、滕循は天紀3年(279)に司空となったが、拝命する前に鎮南将軍に移って郭馬を討ちに行った。 演義 第120回 §35正史 呉書 巻3 §75 · 78–84

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率4835−13
  • 武力3831−7
  • 知力4040±0
  • 政治5048−2
  • 魅力4040±0
  • 徳4040±0
  • 処世4040±0
  • 文芸3638+2
  • 弁舌4040±0
  • 用人3840+2
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

統率正48演35推定 −13

正三郡督として派遣され、奚熙を捕らえに向かった呉書 巻3 §67

演直接の記録なし — 司徒の職から推定第120回 §35

近い項目 9件 — 根拠を見る
  • 武力正38推定演31推定 −7

    正直接の記録なし — 三郡督・牛渚都督・司徒の経歴から推定呉書 巻3 §67

    演直接の記録なし — 司徒の職から推定第120回 §35

  • 知力正40推定演40推定 ±0

    正直接の記録なし — 三郡督・牛渚都督・司徒の経歴から推定呉書 巻3 §75

    演直接の記録なし — 司徒の職から推定第120回 §35

  • 政治正50推定演48推定 −2

    正直接の記録なし — 三郡督・牛渚都督・司徒の経歴から推定呉書 巻3 §75

    演直接の記録なし — 司徒の職から推定第120回 §35

  • 魅力正40推定演40推定 ±0

    正直接の記録なし — 三郡督・牛渚都督・司徒の経歴から推定呉書 巻3 §75

    演直接の記録なし — 司徒の職から推定第120回 §35

  • 徳正40推定演40推定 ±0

    正直接の記録なし — 三郡督・牛渚都督・司徒の経歴から推定呉書 巻3 §75

    演直接の記録なし — 司徒の職から推定第120回 §35

  • 処世正40推定演40推定 ±0

    正直接の記録なし — 三郡督・牛渚都督・司徒の経歴から推定呉書 巻3 §75

    演直接の記録なし — 司徒の職から推定第120回 §35

  • 文芸・学術正36推定演38推定 +2

    正直接の記録なし — 三郡督・牛渚都督・司徒の経歴から推定呉書 巻3 §75

    演直接の記録なし — 司徒の職から推定第120回 §35

  • 弁舌・外交正40推定演40推定 ±0

    正直接の記録なし — 三郡督・牛渚都督・司徒の経歴から推定呉書 巻3 §75

    演直接の記録なし — 司徒の職から推定第120回 §35

  • 識人・用人正38推定演40推定 +2

    正直接の記録なし — 三郡督・牛渚都督・司徒の経歴から推定呉書 巻3 §75

    演直接の記録なし — 司徒の職から推定第120回 §35

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(1回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

所属の変遷

  1. 呉 · 演義 · 演義 第120回 「司徒何植」 · Q124737659