韋康
人物紹介
韋康は後漢末の涼州刺史である。正史には独立した伝がなく、楊阜伝・荀彧伝・夏侯淵伝・馬超伝などに見える。涼州牧の韋端が召されて太僕となると、その子として代わって刺史となった。荀彧が推挙した人物であった。 正史 魏書 巻25 §25正史 魏書 巻10 §16
馬超が隴上の郡県を攻めると、治所の冀城だけが州と郡の長官を奉じて正月から8月まで持ちこたえたが、救援は来なかった。救援を求めに出た別駕の閻温までが馬超に殺されると、刺史と太守は人を遣わして和を請い、城門を開いた。馬超は城に入り、楊昂に刺史と太守を殺させた。 正史 魏書 巻25 §27–28正史 蜀書 巻6 §28
陳寿は、荀彧が推挙した人物はみな職にふさわしかったが、厳象と韋康だけはのちに敗亡したと記した。演義では第59回に、楊阜が曹操に涼州刺史として推薦する人物として初めて登場し、全120回のうち2回に姿を見せ、第64回で馬超に降伏したのち家族とともに殺される。 正史 魏書 巻10 §16演義 第59回 §40演義 第64回 §34
正史の記録
楊阜はかつて州の従事として涼州牧韋端の使者となり、許に赴いて戻った。韋端が召されて太僕となると、その子の韋康が代わって刺史となり、楊阜を別駕に招いた。楊阜が孝廉に推挙されて丞相府に招かれると、州は上表して彼を留め、軍事に参与させた。 正史 魏書 巻25 §24–25
陳寿は荀彧伝で、太祖は荀彧が人を見る目があると考え、彼が推挙した人物はみな職にふさわしかったが、ただ厳象は揚州を、韋康は涼州を任されたのち敗亡したと記した。 正史 魏書 巻10 §16
馬超は渭南で敗れると逃れて諸戎に身を寄せた。太祖は安定まで追ったが、蘇伯が河間で反乱を起こしたため、軍を率いて東へ帰ろうとした。その時使者として来ていた楊阜は、馬超は羌族・胡族の心を大いに得ているので、厳しく備えなければ隴上の諸郡は国家のものでなくなるだろうと言った。太祖はこれをよしとしたが、軍が慌ただしく帰ったため備えは行き届かなかった。 正史 魏書 巻25 §26
馬超が諸戎の首領を率いて隴上の郡県を攻めると、みなこれに呼応したが、冀城だけは州と郡の長官を奉じて固く守った。馬超は隴右の衆をことごとく併せ、張魯が遣わした大将楊昂の助けまで得て、一万余人で城を攻めた。楊阜は郷里の士大夫と一族の子弟のうち戦える者千余人を率いて接戦し、正月から8月まで防ぎ守ったが、救援は来なかった。夏侯淵伝は、馬超が冀で涼州刺史韋康を包囲すると夏侯淵が救援に向かったが、到着する前に韋康が敗れたと記す。 正史 魏書 巻25 §27正史 魏書 巻9 §17
州は別駕の閻温をひそかに送り出し、夏侯淵に危急を告げさせた。閻温は夜に水中からひそかに抜け出したが捕らえられて城下に引き出され、大軍は三日を過ぎずに到着するから頑張れと城に向かって叫んだのち、馬超に殺された。そこで刺史と太守は顔色を失い、初めて馬超に降伏する計を抱いた。 正史 魏書 巻18 §83–85正史 魏書 巻25 §28
楊阜は、父兄子弟を率いて義をもって励まし合い、死んでも二心を抱かないと誓ったのに、ほぼ成し遂げた功を捨てて不義の名に陥ろうとするのか、自分は死をもって守ると泣いて諫めた。しかし刺史と太守はついに人を遣わして和を請い、城門を開いて馬超を迎え入れた。馬超は入城すると楊阜の従弟楊岳を冀に拘禁し、楊昂に刺史と太守を殺させた。馬超伝は、馬超が涼州刺史韋康を殺し、冀城を占拠してその兵衆を手に入れたと記す。 正史 魏書 巻25 §28正史 蜀書 巻6 §28
その後、韋康の故吏・民である楊阜・姜叙・梁寛・趙衢らがともに謀って馬超を討った。楊阜は外従兄の姜叙を訪ね、城を守りながら守り通せず、主君が死んだのに後を追って死ぬこともできなかったと言い、馬超は父に背き君に叛き、州の将を惨殺したのだから、一州の士大夫がみなその恥辱をこうむったのだと言った。楊阜伝は、彼らが建安17年(212)9月に鹵城で兵を挙げたと記す。 正史 蜀書 巻6 §29正史 魏書 巻25 §29 · 31
隴右が平定されたのち、太祖が楊阜に関内侯の爵位を与えると、楊阜は、主君が存命の時には患難を防いだ功がなく、主君が亡くなった時には節に殉じて死んだ証もないと言って辞退した。 正史 魏書 巻25 §33
陳寿の本文は韋康の字や出身地、没年を記しておらず、楊阜伝を収める巻25末の評でも彼を別に評していない。 正史 魏書 巻25 §24–33 · 120
演義の描写
演義第59回で、曹操が馬超を安定まで追ったのち長安に戻ると、涼州参軍の楊阜が訪ねてきて、勢いに乗じて馬超を根絶やしにしなければ、隴上の諸郡は二度と国家のものではなくなるだろうと言う。曹操が中原に事が多く長くとどまれないので、この地を守ってほしいと言うと、楊阜は韋康を涼州刺史に推薦し、ともに兵を率いて冀城に駐屯して馬超を防ぐことにする。 演義 第59回 §38–40
第64回で、戦いに敗れて羌族の地に入ってから二年余りになる馬超が隴西の州郡を攻め取ると、冀城だけが落ちない。刺史の韋康はたびたび人を遣わして夏侯淵に救援を求めるが、夏侯淵は曹操の命を受けていないため、あえて兵を動かさない。救援が来ないので、韋康は皆と相談し、馬超に降伏するにしかないと言う。 演義 第64回 §33
参軍の楊阜は、馬超らは君に叛いた者たちだと泣いて諫めるが、韋康は「事態がここに至ったからには、降伏せずに何を待つのか」と言って城門を大きく開き、馬超に降伏する。馬超は「今は事が急だから降伏を請うのであって、本心ではない」と大いに怒り、韋康の家族四十余人を一人も残さずことごとく斬る。楊阜も斬るべきだという声には、義を守った者だとして生かしておく。 演義 第64回 §34
楊阜は妻を葬ると言って休暇を得、歴城の姜叙を訪ね、城を守りながらも守り通せず、主が死んだのに後を追って死ぬこともできなかったと泣く。姜叙の母は「韋使君が害されたのはお前の罪でもある」と姜叙を叱り、姜叙は尹奉・趙昂と相談して韋康の仇を討つことにする。 演義 第64回 §36–37 · 39
演義と異なる点
刺史となった経緯:演義第59回では、馬超が渭南で敗れたのち、楊阜が曹操に韋康を涼州刺史として推薦する。正史では、涼州牧の韋端が太僕に召されると、その子の韋康が代わって刺史となり、楊阜を別駕に招いた。荀彧伝は韋康を荀彧が推挙した人物として記す。 演義 第59回 §40正史 魏書 巻25 §25正史 魏書 巻10 §16
楊阜の進言:演義第59回では、曹操は楊阜の言葉を聞いて、彼にこの地を守るよう任せる。正史の楊阜伝では、太祖は楊阜の言葉をよしとしたが、軍が慌ただしく帰ったため備えは行き届かなかった。 演義 第59回 §39正史 魏書 巻25 §26
夏侯淵の救援:演義第64回では、夏侯淵は曹操の命を受けていないため、あえて兵を動かさない。正史の夏侯淵伝では、夏侯淵は韋康を救いに向かったが、到着する前に韋康が敗れた。 演義 第64回 §33正史 魏書 巻9 §17
閻温:正史では、州が別駕の閻温をひそかに送り出して夏侯淵に危急を告げさせ、閻温が馬超に殺されたのちに初めて刺史と太守が降伏の計を抱いた。演義第64回には閻温は登場せず、韋康は救援が来ないとすぐに降伏を相談する。 正史 魏書 巻18 §83–85正史 魏書 巻25 §28演義 第64回 §33
降伏を決めた者:演義第64回では、韋康が楊阜の諫めを退け、自ら城門を大きく開いて降伏する。正史の楊阜伝では、刺史と太守がともに人を遣わして和を請い、そののち城門を開いて馬超を迎え入れた。 演義 第64回 §34正史 魏書 巻25 §28
死:演義第64回では、馬超は本心ではないとして韋康の家族四十余人をことごとく斬る。正史では、馬超が入城して楊昂に刺史と太守を殺させており、家族を殺したという記述は陳寿の本文にはない。 演義 第64回 §34正史 魏書 巻25 §28正史 蜀書 巻6 §28
姜叙の母:演義第64回では、姜叙の母が「韋使君が害されたのはお前の罪でもある」と姜叙を叱る。正史の楊阜伝では、姜叙の母は憤然として姜叙に楊阜の計に従うよう命じるだけで、韋康を挙げて叱る言葉はない。 演義 第64回 §37正史 魏書 巻25 §30
荀彧の推挙:正史の荀彧伝は、韋康を荀彧が推挙したがのちに敗亡した人物として記す。演義で韋康を推薦するのは楊阜であり、荀彧と韋康を結びつける場面はない。 正史 魏書 巻10 §16演義 第59回 §40
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率3840+2
- 武力3531−4
- 知力4030−10
- 政治5042−8
- 魅力6440−24
- 徳5030−20
- 処世4020−20
- 文芸4035−5
- 弁舌4035−5
- 用人4230−12
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
正直接の記録なし — 刺史の職から推定魏書 巻10 §16
演楊阜の諫めを退けた第64回 §34
正直接の記録なし — 刺史の職から推定魏書 巻10 §16
演楊阜の諫めを聞かず降伏を選んだ第64回 §34
近い項目 5件 — 根拠を見る
正冀で馬超に敗れ、涼州を任されたのち敗亡魏書 巻9 §17魏書 巻10 §16
演冀城だけは守ったが、救援が来ないので降伏第64回 §33
正直接の記録なし — 涼州刺史の職から推定魏書 巻10 §16
演直接の記録なし — 涼州刺史の職から推定第59回 §40
正直接の記録なし — 荀彧が推挙した人物であることから推定魏書 巻10 §16
演直接の記録なし — 刺史の職から推定第59回 §40
正直接の記録なし — 刺史の職から推定魏書 巻10 §16
演直接の記録なし — 刺史の職から推定第64回 §33
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。