演義の場面
楊阜借兵破馬超
事件紹介
演義第64回の回目「楊阜借兵破馬超」の場面であり、鹵城之戦を描いた段である。冀城を占めた馬超のもとに残った楊阜が、母方の従兄姜叙を説いて兵を起こさせ、城に残った梁寛・趙衢が門を閉ざして馬超の妻子を殺したので、馬超は夏侯淵にまで追われて漢中の張魯のもとへ逃げる。 演義 第64回 §33–47
陳寿の本文は魏書巻25楊阜の伝と蜀書巻6馬超の伝にこのことを記しており、演義の筋は楊阜の伝をほぼそのまま踏襲している。 正史 魏書 巻25 §27–32正史 蜀書 巻6 §29
演義の描写
演義第64回で、羌族の地に入って二年余りになる馬超は隴西の州郡を奪い、冀城だけを残す。夏侯淵が曹操の命がないため救援できずにいると、刺史韋康は楊阜が泣いて止めるのも聞かずに城門を開いて降伏し、馬超は本心ではないとして韋康の一家四十余人を斬る。馬超は義を守ったとして楊阜を生かして参軍に用い、楊阜が推挙した梁寛・趙衢も軍官に用いる。 演義 第64回 §33–35
妻の葬儀を口実に暇をもらった楊阜は、歴城で母方の従兄姜叙と叔母に会い、馬超を討とうと泣いて訴え、姜叙の母は息子を叱って決起を促す。姜叙は尹奉・趙昂と手を結び、息子の趙月が馬超のもとにいるためためらっていた趙昂は、妻の王氏の言葉で決心する。姜叙と楊阜は歴城に、尹奉と趙昂は祁山に陣を張る。 演義 第64回 §36–40
怒った馬超は趙月を斬り、歴城へ攻め込んで姜叙と楊阜を破るが、尹奉・趙昂と、曹操の軍令を受けて来た夏侯淵に挟撃されて敗れる。冀城に戻ると、梁寛と趙衢が城上で馬超の妻と幼い息子三人を斬って投げ落とし、馬超は歴城を急襲して姜叙の母を殺す。再び前をふさいだ楊阜は槍を五か所に受け、一族の弟七人を失っても持ちこたえ、馬超は龐徳・馬岱とともに張魯のもとへ逃げる。曹操は楊阜を関内侯に封じる。 演義 第64回 §41–47
演義と異なる点
韋康の降伏:演義第64回では韋康が降伏し、馬超がその一家を斬る。正史楊阜の伝では、冀城は正月から8月まで持ちこたえた末に刺史と太守が城門を開き、馬超は入城して楊昂に刺史と太守を殺させた。 演義 第64回 §33–34正史 魏書 巻25 §27–28
挙兵した場所と年:演義で姜叙と楊阜は歴城に陣を張って馬超と戦う。楊阜の伝で楊阜は建安17年(212)9月に姜叙とともに鹵城で兵を起こし、馬超の伝は、馬超が鹵城を攻めたが落とせなかったと記す。魏書巻1武帝紀は、趙衢・尹奉が馬超の妻子を殺したことを建安19年(214)正月に置く。馬超が歴城を急襲して姜叙の母を殺したことと、楊阜が五か所に傷を負ったことは演義と同じである。 演義 第64回 §40–41 · 45–46正史 魏書 巻25 §31–32正史 蜀書 巻6 §29正史 魏書 巻1 §136
夏侯淵の救援:演義で夏侯淵は挙兵したその日にすぐ馬超を挟撃する。正史夏侯淵の伝では、馬超が漢中へ逃げた後に戻って祁山を包囲すると、姜叙らが救援を求め、夏侯淵は曹操の指図を待たずに張郃を先に立てて馬超を追い払った。 演義 第64回 §42正史 魏書 巻9 §18–19
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。