姜叙 姜敘

正史演義 字 伯弈 Jiang XuBoyi강서백혁

プロフィール
職業正演武将 · 撫夷将軍所属
登場正演収録
出生出身地漢陽郡
実在実在言及正6回

人物紹介

姜叙は楊阜の母方の従兄で、馬超が涼州刺史韋康を殺して冀城を占拠したとき、歴城に駐屯していた。正史には独立した伝がなく、魏書巻25「辛毗楊阜高堂隆伝」の楊阜の記録と夏侯淵伝・馬超伝に現れる。 正史 魏書 巻25 §29正史 蜀書 巻6 §28–29正史 魏書 巻9 §18

楊阜の説得と母の命により楊阜とともに鹵城で兵を挙げて馬超を攻めたが、馬超が歴城を襲って彼の母を捕らえて殺した。曹操は楊阜への返書で、早く兵を挙げるよう勧めた姜叙の母を称賛した。 正史 魏書 巻25 §29–31 · 33–34

陳寿の本文は姜叙の字・官職・没年を記しておらず、巻25の評にも彼の名はない。演義では第64回に歴城の撫彝将軍として現れ、120回のうちこの1回にだけ登場する。その回目「楊阜借兵破馬超」に姜叙の名は入っていない。 正史 魏書 巻25 §29–34 · 120演義 第64回 §36

正史の記録

馬超は渭南で戦って敗れたのち、諸戎の渠帥を率いて隴上の郡県を攻めた。隴上の郡県はみな呼応したが、ただ冀城だけが州郡の長官を奉じて固く守り、正月から8月まで救援の兵は来なかった。刺史と太守はついに城門を開いて馬超を迎え入れ、馬超は楊昂に刺史と太守を殺させた。馬超は自ら征西将軍と称し、并州牧を兼ね、涼州の軍事を監督した。 正史 魏書 巻25 §26–28正史 蜀書 巻6 §29

韋康の別駕であった楊阜は、内心馬超に報復する志を抱き、妻を亡くしたとして葬儀のための休暇を願い出た。楊阜の母方の従兄姜叙は歴城に駐屯しており、楊阜は幼いころ姜叙の家で育った。楊阜は姜叙の母と姜叙に会い、冀城でのことを語ってひどく嘆き悲しんだ。姜叙がどうしてそのようにするのかと問うと、楊阜は、城を守り通せず、主君が死んでも死ぬことができなかったと言い、馬超は父に背き君に叛いて州の将を惨殺したのだから、一州の士大夫がみなその恥辱を被っているのだと述べた。 正史 魏書 巻25 §25 · 29

楊阜は続けて言った。「あなたは兵を擁して思うままに統御しながら賊を討つ心がない。これこそ趙盾が君を弑したと書かれた理由です。馬超は強いが義がなく、隙が多いので図りやすいのです。」姜叙の母は奮然として、姜叙に楊阜の計に従うよう命じた。計が定まると、外では同郷の姜隠・趙昂・尹奉・姚瓊・孔信、武都の人李俊・王霊と謀を結んで馬超討伐の約束を定め、楊阜の従弟楊謨を冀城に送って楊岳に知らせ、安定の梁寛、南安の趙衢・龐恭らとも結んだ。 正史 魏書 巻25 §30

盟約が明らかになると、楊阜は建安17年(212)9月、姜叙とともに鹵城で兵を挙げた。馬超が自ら兵を率いて出てくると、趙衢・梁寛らが捕らわれていた楊岳を解き放ち、冀城の門を閉ざして馬超の妻子を討った。馬超伝は、馬超が鹵城を攻めたが落とせず、冀城の門が閉ざされて入ることもできず、進退窮まったと記す。 正史 魏書 巻25 §31正史 蜀書 巻6 §29

馬超は歴城を襲って姜叙の母を捕らえた。姜叙の母は「お前は父に背いた逆子、君を殺した凶賊だ。天地がどうしてお前を長く容れようか。早く死にもせずに、よくも顔を上げて人を見られるものだ」と罵り、馬超は怒って彼女を殺した。楊阜は馬超と戦って五か所に傷を負い、一族の兄弟のうち七人が死に、馬超はついに南へ張魯のもとへ逃れた。 正史 魏書 巻25 §31–32

夏侯淵伝はこのことを建安19年(214)のこととして記す。趙衢・尹奉らが馬超討伐を謀り、姜叙が鹵城で兵を挙げて呼応すると、趙衢らは馬超を欺いて姜叙を攻めに出させ、その背後で馬超の妻子をことごとく殺した。馬超は漢中へ逃れたのち戻って祁山を包囲した。姜叙らが急ぎ救援を求めると、諸将は曹操の指示を待とうとしたが、夏侯淵は返答が来るころには姜叙らは必ず敗れているとして、ただちに兵を出した。武帝紀も、19年春正月に南安の趙衢と漢陽の尹奉らが馬超を討ってその妻子を殺したと記す。 正史 魏書 巻9 §18–19正史 魏書 巻1 §136

隴右が平定されると、曹操は馬超討伐の功を賞して十一人を侯とし、楊阜に関内侯の爵位を与えた。楊阜が辞退すると、曹操は返答して、姜叙の母が姜叙に早く兵を挙げるよう勧めたことは明智このようであり、たとえ楊敞の妻であってもこれに勝ることはないだろうとし、「賢なるかな、賢なるかな」と述べた。陳寿の本文は姜叙が受けた賞とその後のこと、没年を記していない。巻25の評は辛毗・楊阜・高堂隆を論じるだけで、姜叙を別に論じてはいない。 正史 魏書 巻25 §33–34 · 120

演義の描写

演義第64回で、馬超に降伏した韋康が家族四十余人とともに殺されたのち、再び馬超の参軍となった楊阜は、妻を葬るとして二か月の休暇を得て、歴城の撫彝将軍姜叙を訪ねる。演義は、二人は従兄弟で、姜叙の母は楊阜の父方のおばであり、このとき八十二歳であったとする。楊阜はおばに拝礼し、城を守れず主君に殉じることもできなかったと言い、歴城を占めていながら賊を討つ心のない兄を責めて、血の涙を流す。 演義 第64回 §34–37

姜叙の母は姜叙を呼び、韋使君が害されたのはお前の罪でもあると叱る。姜叙が、馬超は英明で勇猛なのですぐには図りがたいと言うと、楊阜は、勇はあっても謀がなく、すでに梁寛・趙衢とひそかに約束してあると言う。母は、忠義のために死ぬのは死に場所を得ることだとし、楊阜の字である義山の言葉を聞かないのなら、自分が先に死んでお前の気がかりを断ってやろうと言う。姜叙は統兵校尉の尹奉・趙昂と相談し、翌日ともに兵を挙げて、楊阜とともに歴城に駐屯する。 演義 第64回 §37–40

馬超が趙昂の子趙月を斬り、龐徳と馬岱を歴城へ送ると、姜叙と楊阜は白い戦袍を着て出て、君に叛いた義のない賊だと罵るが、馬超に敵わず大敗して逃げる。背後から尹奉と趙昂が攻めかかり、夏侯淵の大軍まで到着すると、馬超は敗れて冀城へ戻るが、梁寛と趙衢が城の上で馬超の妻と幼い息子三人を斬る。夏侯淵に追われて逃げる馬超は、前方で再び姜叙・楊阜とひと戦を交える。 演義 第64回 §41–44

残った五、六十騎を率いて四更ごろ歴城の下に着いた馬超を、門番は姜叙の兵が帰ってきたとばかり思って城門を開けて迎え入れる。馬超は城内の民を皆殺しにし、姜叙の家から老母を引き出すが、母が少しも恐れる様子なく指さして大声で罵ると、馬超は自ら剣を取って彼女を殺す。馬超が逃げ去ったのち、夏侯淵は隴西諸州の民を慰撫して姜叙らに分けて守らせ、楊阜を許都へ送って曹操に会わせる。 演義 第64回 §44–47

演義と異なる点

親族関係:演義第64回は、姜叙の母が楊阜の父方のおばで、二人は従兄弟だとする。正史の楊阜伝は姜叙を楊阜の母方の従兄とし、楊阜が幼いころ姜叙の家で育ったと記す。 演義 第64回 §36正史 魏書 巻25 §29

姜叙を動かした言葉:演義第64回では、姜叙の母が韋使君が害されたのはお前の罪でもあると叱り、従わなければ自分が先に死ぬと言う。正史では、楊阜が姜叙に兵を擁しながら賊を討つ心がないと詰め寄り、姜叙の母が奮然として楊阜の計に従うよう命じた。 演義 第64回 §37–38正史 魏書 巻25 §30

ともに謀った人々:演義第64回では、姜叙が統兵校尉の尹奉・趙昂と相談し、楊阜はあらかじめ梁寛・趙衢と約束しておく。正史の楊阜伝では、同郷の姜隠・趙昂・尹奉・姚瓊・孔信と武都の人李俊・王霊が謀を結び、冀城の楊岳に知らせ、安定の梁寛と南安の趙衢・龐恭らとも結んだ。 演義 第64回 §38–39正史 魏書 巻25 §30

兵を挙げた場所と時:演義第64回では、姜叙と楊阜が歴城に、尹奉と趙昂が祁山に駐屯し、年は明らかにしない。正史の楊阜伝では、建安17年(212)9月に楊阜が姜叙とともに鹵城で兵を挙げ、夏侯淵伝は姜叙が鹵城で兵を挙げたことを19年(214)に記す。 演義 第64回 §40正史 魏書 巻25 §31正史 魏書 巻9 §18

馬超との戦い:演義第64回では、姜叙と楊阜が白い戦袍を着て出て馬超と対峙し、大敗して逃げる。正史の馬超伝では、馬超が鹵城を攻めたが落とせなかった。 演義 第64回 §41正史 蜀書 巻6 §29

馬超の妻子:演義第64回では、馬超が夏侯淵らに敗れて冀城に戻ると、梁寛と趙衢が城の上で妻子を斬る。正史の楊阜伝では、馬超が鹵城へ出ている間に趙衢・梁寛らが冀城の門を閉ざして馬超の妻子を討った。夏侯淵伝で夏侯淵が兵を出したのは、馬超が漢中へ逃れたのち戻って祁山を包囲してからである。 演義 第64回 §42–43正史 魏書 巻25 §31正史 魏書 巻9 §18–19

母の死:演義第64回で馬超は歴城に入って民を皆殺しにし、姜叙の母を自ら剣で殺す。正史の楊阜伝では、馬超が歴城を襲って姜叙の母を捕らえ、その罵りに怒って彼女を殺した。民を皆殺しにしたという話はない。 演義 第64回 §45正史 魏書 巻25 §31

曹操の称賛:正史で曹操は楊阜に返答して、姜叙の母は楊敞の妻に劣らないと称賛した。演義第64回で曹操が楊阜を関内侯に封じる場面には、姜叙の母の話はない。 正史 魏書 巻25 §33–34演義 第64回 §47

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率5545−10
  • 武力4035−5
  • 知力4538−7
  • 政治4038−2
  • 魅力4242±0
  • 徳6270+8
  • 処世5042−8
  • 文芸3531−4
  • 弁舌4038−2
  • 用人4040±0
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

近い項目 9件 — 根拠を見る
  • 武力正40推定演35 −5

    正直接の記録なし — 撫夷将軍級の駐屯将から推定魏書 巻25 §31

    演馬超に敵わず大敗して逃げた第64回 §41

  • 知力正45推定演38 −7

    正直接の記録なし — 計略は楊阜が立てた魏書 巻25 §30

    演馬超は英明で勇猛なので図りがたいとためらった第64回 §38

  • 政治正40推定演38推定 −2

    正直接の記録なし — 歴城駐屯から推定魏書 巻25 §29

    演直接の記録なし — 夏侯淵に守備を任されたことから推定第64回 §47

  • 魅力正42推定演42推定 ±0

    正直接の記録なし — 事績から推定魏書 巻25 §29

    演直接の記録なし — 事績から推定第64回 §39

  • 徳正62演70 +8

    正母の命に従い、主君の仇を討つため兵を挙げた魏書 巻25 §30魏書 巻25 §31

    演母の意に従い、白い戦袍で賊を罵って挙兵した第64回 §38第64回 §41

  • 処世正50演42推定 −8

    正馬超に追い詰められると急ぎ夏侯淵に救援を求めた魏書 巻9 §18

    演直接の記録なし — 事績から推定第64回 §39

  • 文芸・学術正35推定演31推定 −4

    正直接の記録なし — 武将から推定魏書 巻25 §29

    演直接の記録なし — 武将から推定第64回 §36

  • 弁舌・外交正40推定演38推定 −2

    正直接の記録なし — 事績から推定魏書 巻9 §18

    演直接の記録なし — 事績から推定第64回 §39

  • 識人・用人正40推定演40推定 ±0

    正直接の記録なし — 事績から推定魏書 巻25 §29

    演直接の記録なし — 事績から推定第64回 §39

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(1回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

関連事件(2)

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