魏諷

正史 字 子京 Wei FengZijing위풍자경魏讽

プロフィール
職業正文官 · 西曹掾所属
登場正収録
出生正? 推定出身地済陰郡
死去正219年 推定死去地
死因正処刑 推定
実在実在言及正21回

人物紹介

魏諷は済陰の人で、魏の相国鍾繇の西曹掾であった。正史には独立した伝がなく、武帝紀と鍾繇・楊俊・劉廙・王粲らの伝に、彼の反乱とそれに連座した人々が現れる。 正史 魏書 巻27 §33正史 魏書 巻1 §169正史 魏書 巻13 §9

太祖(曹操)が漢中征伐に出ていたとき、鄴で反乱を企てて処刑された。武帝紀は、建安24年(219)9月に相国鍾繇が魏諷の反乱に連座して免職されたと記す。中尉楊俊が左遷され、張繍の子と王粲の二人の子が連座して処刑された。 正史 魏書 巻23 §28正史 魏書 巻1 §165 · 169正史 魏書 巻12 §38正史 魏書 巻8 §59正史 魏書 巻21 §8正史 魏書 巻14 §78

陳寿の評には魏諷は現れない。のちに董昭は上疏で、王昶は家を戒める文で、彼を虚偽と邪悪によって当世を乱して処刑された者の例として挙げた。演義には登場しない。 正史 魏書 巻14 §78正史 魏書 巻27 §33

正史の記録

王昶は家を戒める文で彼を「済陰の魏諷」と呼んだ。鍾繇の伝によれば、鍾繇は魏国が初めて建てられると大理となり、相国に移ったが、数年後に西曹掾魏諷の謀反に連座し、策書によって罷免されて家に退いた。武帝紀はこのことを建安24年(219)9月に記した。 正史 魏書 巻27 §33正史 魏書 巻13 §9正史 魏書 巻1 §165 · 169

楊俊の伝によれば、太祖(曹操)が漢中を征伐していたとき、魏諷が鄴で反乱を起こした。中尉楊俊は自らを弾劾して行在所に赴き、まもなく罷免されると考えて太子(曹丕)に別れの書簡を送った。太子は「楊中尉がさっさと去るとは、なんと高踏に過ぎることか」と言って喜ばず、楊俊は平原太守に左遷された。 正史 魏書 巻23 §28–29

徐奕の伝によれば、魏諷らが謀反して楊俊が左遷されると、太祖は「魏諷があえて乱心を起こしたのは、わが爪牙の臣に奸を遏め謀を防ぐ者がいなかったからだ」と嘆き、楊俊に代わる人物を探した。桓階が徐奕を推挙すると、太祖は徐奕を中尉とした。 正史 魏書 巻12 §38

魏諷の反乱には多くの家が連座した。張繍の子張泉は魏諷とともに謀反したことに連座して処刑され、封国は除かれた。王粲の二人の子も魏諷に引き込まれて処刑され、王粲の家は絶えた。 正史 魏書 巻8 §59正史 魏書 巻21 §8

劉廙の弟劉偉も魏諷に引き込まれていたので、劉廙もまた連座して殺されるはずであった。太祖は「叔向が弟の虎の罪に連座しなかったのは古の制度である」として特別に赦し、劉廙を丞相倉曹属に移した。陳群の伝によれば、陳群がこのことを太祖に言うと、太祖は「劉廙は名臣であるから、私も赦そうと思っていた」と言い、劉廙が感謝すると、陳群は刑を議したのは国のためであって私事ではないと答えた。 正史 魏書 巻21 §59正史 魏書 巻22 §36

明帝(曹叡)のとき司徒となった董昭は、末流の弊害を述べる上疏で、虚偽によって教化を損なう者の例として、魏諷が建安の末に処刑され、曹偉が黄初の初めに斬られたことを挙げた。続けて、役人の家の者であるかのように名を偽って禁中に出入りするなどのことは、魏諷・曹偉の罪であってもこれ以上ではないと述べた。 正史 魏書 巻14 §78 · 80

王昶は家を戒める文で、近ごろ済陰の魏諷と山陽の曹偉がともに邪悪によって没落したが、彼らは当世を惑わし、奸悪を抱き、若者たちを駆り立てたと書いた。彼らが鈇鉞の刑を受けて大きな明らかな戒めとなったが、染まった者はすでに多かったので、慎まなければならないと述べた。 正史 魏書 巻27 §33

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史
  • 統率38
  • 武力35
  • 知力40
  • 政治35
  • 魅力52
  • 徳8
  • 処世28
  • 文芸42
  • 弁舌50
  • 用人35
各項目100点

項目別の根拠

正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。