孟仁
人物紹介
孟仁は呉の臣で、陳寿の本文は孫権・孫亮・孫休の時代の記事では孟宗、孫皓の時代の記事では孟仁と記す。光禄勲の孟宗が永安5年(262)に御史大夫となり、宝鼎3年(268)に御史大夫の孟仁が司空となって、二つの名が一人の人物としてつながる。呉県令であったとき、丞相の顧雍が喪に駆けつける官吏を死刑に処するよう上奏した後、母の喪に遭って駆けつけ、自ら身を拘束して刑を待ったが、陸遜の願いにより孫権は罪を一等減じた。 正史 呉書 巻3 §37 · 60正史 呉書 巻2 §85–86
太平3年(258)、光禄勲として孫綝の命で宗廟に告げて孫亮を廃する役を務め、孫皓の時に守丞相を経て司空に昇り、建衡3年(271)に死去した。 正史 呉書 巻19 §88正史 呉書 巻14 §33正史 呉書 巻3 §60 · 63
正史には彼の独立した伝がなく、評もない。演義には第113回に、孫綝が武昌へ出す中書郎の孟宗として一度登場し、全120回のうち1回に登場するが、回目に名が載ることはない。 演義 第113回 §16
正史の記録
嘉禾6年(237)春正月、孫権は、官にある長吏が後任との交代を待つべしという条項に違反して喪に駆けつけることについて、内外の群僚に改めて公平に議論して規定を定めるよう詔を下した。顧譚・胡綜らが議論し、胡綜は条文を定めて死刑を示すよう述べ、丞相の顧雍は死刑に従うよう上奏した。 正史 呉書 巻2 §81–85
その後、呉県令の孟宗が母の喪に遭って駆けつけたが、まもなく自ら武昌に赴いて身を拘束し刑を待った。陸遜が彼の平素の行いを述べて彼のために願い出ると、孫権は孟宗の罪を一等減じたが、のちにこれを前例とはさせず、これによってそうした事は絶えた。 正史 呉書 巻2 §86
太平3年(258)9月、孫亮が太常の全尚・将軍の劉丞とともに孫綝を殺そうと謀ったが、事が漏れた。孫綝は軍勢を率いて夜に全尚を襲い、弟の孫恩を遣わして蒼龍門の外で劉丞を殺したのち宮殿を包囲し、光禄勲の孟宗に宗廟に告げさせて孫亮を廃させた。 正史 呉書 巻3 §18正史 呉書 巻19 §88
孫休が即位した後、孫綝が恨みを抱いて反逆を謀っていると告げた者を、孫休が捕らえて孫綝に引き渡すと、孫綝はその者を殺した。これによりいっそう恐れた孫綝は、孟宗を通じて外に出て武昌に駐屯することを願い出た。孫休はこれを許し、孫綝が率いる中営の精兵1万余人にみな荷を積ませ、武庫の兵器もすべて与えるよう命じた。孫綝は永安元年(258)12月の臘祭の宴で捕らえられて斬られた。 正史 呉書 巻19 §98–100
永安5年(262)冬10月、孫休は衛将軍の濮陽興を丞相とし、廷尉の丁密と光禄勲の孟宗を左右の御史大夫とした。 正史 呉書 巻3 §37
孫皓の時、宝鼎2年(267)12月、孫皓は守丞相の孟仁と太常の姚信らに、官僚と中軍の歩騎2千人を備えさせ、霊輿と法駕で東の明陵に行って神霊を迎えさせた。孫皓は孟仁を引見し、自ら庭で拝して見送った。明陵は孫皓が父の孫和を改葬した所である。 正史 呉書 巻14 §32–33
宝鼎3年(268)春2月、左右の御史大夫の丁固と孟仁が司徒と司空となった。建衡3年(271)、右大司馬の丁奉と司空の孟仁が死去した。正史には孟仁の独立した伝はなく、陳寿の評もない。 正史 呉書 巻3 §60 · 63
演義の描写
演義第113回で、孫綝の一門から侯が五人も出てみな禁軍を司ると、呉主孫休は表向きは恩寵を示しながら内心では彼を警戒する。冬12月、孫綝は長寿を祝う牛肉と酒を孫休に拒まれると、左将軍張布の屋敷でともに飲んで恨み言を言い、張布は翌日これを孫休にひそかに奏上する。 演義 第113回 §14–16
数日後、孫綝は中書郎の孟宗を遣わし、中営が管轄する精兵1万5千を割き与えて武昌に出て駐屯させ、武庫の中の兵器をことごとく与える。将軍の魏邈と武衛士の施朔は、孫綝が遠からず必ず変乱を起こすと孫休にひそかに奏上し、孫休は張布・丁奉とともに臘日の宴で孫綝を捕らえる計略を定める。演義で孟宗が登場するのはこの一度だけである。 演義 第113回 §16–17
演義と異なる点
武昌駐屯:演義第113回では、孫綝が中書郎の孟宗を遣わし、精兵1万5千を割き与えて武昌に出て駐屯させる。正史では、孫綝が孟宗を通じて自分が外に出て武昌に駐屯することを願い出て、孫休がこれを許し、孫綝が率いる中営の精兵1万余人に荷を積ませた。孟宗が兵を率いて武昌に出たという記述はない。 演義 第113回 §16正史 呉書 巻19 §98
官職:演義第113回で孟宗は中書郎として登場する。正史では、孫綝が孫亮を廃した太平3年(258)にすでに光禄勲であり、永安5年(262)に光禄勲から御史大夫となった。 演義 第113回 §16正史 呉書 巻19 §88正史 呉書 巻3 §37
孫亮の廃位:演義第113回では、孫綝が文武の官員を集めて廃位を宣言し、孫亮を罵ったのち中書郎の李崇に玉璽を奪わせる。孟宗はこの場面に登場しない。正史では、孫綝が光禄勲の孟宗に宗廟に告げさせて孫亮を廃させた。 演義 第113回 §8–10正史 呉書 巻19 §88
奔喪とその後:演義には、孟宗が母の喪に駆けつけて罪を減じられたこと、孫皓の時に守丞相・司空となったこと、そして彼の死がない。正史にはこれらの事と、建衡3年(271)に司空の孟仁が死去したという記録がある。 演義 第113回 §16正史 呉書 巻2 §86正史 呉書 巻14 §33正史 呉書 巻3 §60 · 63
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率3131±0
- 武力3131±0
- 知力4035−5
- 政治5540−15
- 魅力4233−9
- 徳6640−26
- 処世4542−3
- 文芸4035−5
- 弁舌3838±0
- 用人3531−4
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
近い項目 8件 — 根拠を見る
正孫綝の命で宗廟に告げ、孫亮の廃位を執行した呉書 巻19 §88
演孫綝の命を受けて精兵1万5千を武昌に移した第113回 §16
正直接の記録なし — 儀礼を担った事績から推定呉書 巻14 §33
演直接の記録なし — 中書郎の身分から推定第113回 §16
正直接の記録なし — 孫綝の願いを取り次いだ事績から推定呉書 巻19 §98
演直接の記録なし — 中書郎の身分から推定第113回 §16
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。