演義の場面
哭祖廟一王死孝
事件紹介
この場面は演義第118回の回目「哭祖廟一王死孝」の場面で、蜀漢の滅亡の末に綿竹が崩れると、後主が譙周の言に従って鄧艾に降ることにし、これを止められなかった第五子の北地王劉諶が妻子を殺した後、昭烈皇帝の廟で慟哭して自ら命を絶つくだりである。 演義 第118回 §1–4 · 9–11
陳寿はこの事を蜀書巻3後主伝と巻12譙周伝、魏書巻28鄧艾伝に記した。後主伝は、景耀6年(263)冬、譙周の計により鄧艾に降った日に、北地王劉諶が国の滅びたことを悲しみ、先に妻子を殺して自ら命を絶ったという。 正史 蜀書 巻3 §43–46正史 蜀書 巻12 §67–68正史 魏書 巻28 §72–73
演義の描写
演義第118回で、綿竹を失い諸葛瞻父子が死んだとの知らせに成都の民が逃げ出すと、臣下たちは南中の七郡に逃れようとか呉に頼ろうとか言う。光禄大夫譙周は、南蛮は恩を受けたことがないので頼れば禍を受け、呉に臣と称した後に魏が呉を呑めば二度の恥辱を受けるとして、魏に降れば土地を割いて封じてくれるだろうと言う。 演義 第118回 §1–3
後主が降伏しようとすると、第五子の北地王劉諶が屏風の後ろから出てきて譙周を命を惜しむ腐れ儒者と罵り、成都にはまだ数万の兵がおり姜維の全軍が剣閣にいるのだから、城を背にして戦い社稷とともに死のうと泣いて願う。後主は彼を宮門の外へ押し出させ、譙周が書いた降書と玉璽を侍中張紹・駙馬都尉鄧良と譙周に持たせて雒城の鄧艾に送り、太僕蒋顕に姜維へ降伏を命じる勅書を届けさせる。 演義 第118回 §4–8
12月1日に君臣が出て降伏することが決まると、劉諶は剣を帯びて宮中に入り、妻の崔夫人に先に死んで先帝にお目にかかると言う。崔夫人は夫が死ねば妻も従って死ぬとして柱に頭を打ちつけて死に、劉諶は三人の子を殺し、妻の首を携えて昭烈皇帝の廟へ行き、血の涙を流して慟哭した後、自ら首をはねる。翌日、後主は太子や諸王、臣下60余人とともに自ら手を縛り、棺を車に載せて北門の外10里に出て降伏し、鄧艾は縛めを解いて棺を焼く。 演義 第118回 §9–13
演義と異なる点
劉諶の死:演義第118回で劉諶は降伏に反対して追い出された後、妻の崔夫人が先に柱に頭を打ちつけて死ぬと、三人の子を殺し、昭烈皇帝の廟で慟哭して自ら首をはねる。正史後主伝は、降伏の日に北地王劉諶が国の滅びたことを悲しみ、先に妻子を殺して自ら命を絶ったとだけ記し、彼が降伏に反対した言葉と廟での慟哭は陳寿の本文にない。 演義 第118回 §4–6 · 9–11正史 蜀書 巻3 §46
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