正権勢をふるって無礼、評では邪悪とされる呉書 巻3 §41呉書 巻19 §109
張布
人物紹介
張布は呉の孫休の側近である。孫休が王であったとき左右将督として信任と寵愛を受け、孫休が即位すると長水校尉から輔義将軍となり、永康侯に封じられた。永安元年(258)12月、丁奉とともに臘祭の宴で権臣孫綝を捕らえて斬り、左将軍として中軍督を加えられた。 正史 呉書 巻3 §41 · 24 · 29正史 呉書 巻19 §100
その後、宮中を取り仕切って権勢をふるい、孫休が韋曜・盛沖と学問を講論しようとするのを阻んだ。孫休が死ぬと濮陽興とともに孫皓を立てたが、元興元年(264)11月に孫皓に殺され、三族を滅ぼされた。 正史 呉書 巻3 §37–42 · 49 · 51正史 呉書 巻19 §106
陳寿は、孫休が旧来の情と昔の恩によって濮陽興と張布を登用し、政治を改めることができなかったと評した。演義では第113回に孫綝の恨み言を聞く左将軍として初めて登場し、全120回のうち2回に登場するが、名が回目に入った回はない。同じ回で剣を抜いて孫綝を捕らえる。 正史 呉書 巻3 §88演義 第113回 §15 · 19
正史の記録
孫休が王であったとき、張布は左右将督となり、日頃から信任と寵愛を受けていた。永安元年(258)10月、孫休は即位後に功臣たちに賞を与え、長水校尉張布が補佐し導くことに勤め励んだとして、輔義将軍とし永康侯に封じた。 正史 呉書 巻3 §41 · 24
孫綝の一門から五人の侯が出て禁軍を掌握し、権勢が君主をしのぐと、孫休は変事を恐れてたびたび賞賜を加えた。孫綝は孫休に牛肉と酒を献じたが受け取られなかったので、左将軍張布のもとに持って行って飲み、皇帝は自分がいなければ立てなかったと言い、もう一度計画を改めねばなるまいと恨み言を言った。張布がその言葉を孫休に伝えると、孫休はこれを心に留めた。 正史 呉書 巻3 §26正史 呉書 巻19 §97
孫綝が武昌に出て駐屯することを願ったのち、将軍魏邈と武衛士の施朔が孫綝に反逆の兆しがあると告げると、孫休はひそかに張布に尋ねた。張布は丁奉を推挙して「役人の文書には通じていないが、計略は人に勝り、大事を決断できる」と言い、丁奉とともに宴の席で孫綝を殺すことを謀った。 正史 呉書 巻19 §98正史 呉書 巻10 §104
永安元年12月戊辰の臘祭の宴に、孫綝は病を口実にしたが、使者が十数度も来たのでやむなく参内した。屋敷で火事が起こると孫綝は出て行こうとしたが、孫休は外に兵は多いと言って引き止め、孫綝が席を立つと、丁奉と張布が左右に目配せして彼を縛らせた。孫綝は交州への流罪か官奴にしてほしいと願ったが、孫休は、滕胤と呂拠にはなぜそうしなかったのかと言って彼を斬った。翌日の詔で、左将軍張布が姦臣を討ったとして中軍督を加え、弟の張惇を都亭侯に封じて兵300人を与え、張惇の弟の張恂を校尉とした。 正史 呉書 巻19 §99–100正史 呉書 巻3 §28–29
永安5年(262)、孫休は丞相濮陽興と左将軍張布に旧恩があったので政務を任せ、張布は宮中を取り仕切り、濮陽興は軍事と国政に関与した。濮陽興伝には、濮陽興が孫休の寵臣である左将軍張布と表裏一体となったので、国中が失望したと記されている。 正史 呉書 巻3 §37正史 呉書 巻19 §105
孫休が博士祭酒韋曜・博士盛沖と学問を講論しようとすると、張布は、剛直な二人が入侍すれば自分の隠れた過失を暴き、権勢をほしいままにできなくなることを恐れ、言葉を飾ってこれを阻んだ。孫休は、そなたはただ臣下の姦悪な変事を語られるのを嫌っているのだと咎め、張布が上表して叩頭すると、「初め有らざる靡く、克く終り有る鮮し」という詩を引いて最後までよく務めよと言った。陳寿は、張布は孫休の即位後に厚い寵愛を受け、国の権勢をほしいままにして無礼な行いを多くしたと記した。孫休は心では喜ばなかったが、張布が疑い恐れることを心配し、ついに講論をやめた。韋曜伝は、孫休が張布を深く恨んだと記す。 正史 呉書 巻3 §38–42正史 呉書 巻20 §39
永安7年(264)7月、孫休が死去した。蜀が滅んだばかりで交阯が背き、国中が年長の君主を望んでいたとき、左典軍万彧が、孫皓は才識が明晰で決断力があると濮陽興と張布にたびたび語った。二人は孫休の妃である太后朱氏を説得し、孫休の嫡子に代えて孫皓を迎え立て、元興元年(264)8月、張布は驃騎将軍となり侍中を加えられた。 正史 呉書 巻3 §46 · 48–50正史 呉書 巻19 §106
孫皓は志を得ると粗暴で驕り高ぶり、酒色を好んだので、濮陽興と張布はひそかにこれを後悔した。万彧が二人は先の事を悔やんでいると讒言すると、孫皓は11月朔日の朝見に入ってきた二人を捕らえて広州に流し、途中で追いかけて殺し、三族を滅ぼした。鳳皇元年(272)、何定の姦悪な行いが露見して処刑されると、孫皓はその悪行が張布に似ているとして、何定の名を布と改めた。 正史 呉書 巻3 §51 · 64正史 呉書 巻19 §106
陳寿は三嗣主伝の評で、孫休は旧来の情と昔の恩によって濮陽興と張布を登用し、優れた人材を抜擢して政治を改めることができなかったので、志が善く学問を好んだとしても、乱を救うのに何の役に立ったであろうかと述べた。また濮陽興伝の評では、濮陽興は張布の邪悪に協力し、万彧の説を受け入れたのだから、誅殺されたのは当然であると述べた。 正史 呉書 巻3 §88正史 呉書 巻19 §109
演義の描写
演義第113回で、孫綝は孫休に牛肉と酒を献じて受け取られなかったので、左将軍張布の屋敷に持って行って飲み、会稽王を廃したとき人々はみな自分に君主になれと勧めたが、今上を立ててやったのに軽んじられていると言い、いずれ見ておれと言う。張布は「はい、はい」と言うだけであったが、翌日宮中に入って孫休にひそかに奏上する。 演義 第113回 §15–16
数日後、孫綝が中書郎孟宗に精兵1万5千を割り当てて武昌に出て駐屯させ、武器庫の兵器を残らず与えると、魏邈と施朔がまもなく変事が起こると奏上する。孫休は急いで張布を呼んで相談し、張布は老将丁奉が計略は人に勝り大事を決断できると言って推挙する。丁奉が臘日の宴に孫綝を呼ぶ計を出すと、丁奉が魏邈・施朔とともに外の事を受け持ち、張布が内から呼応することにする。 演義 第113回 §16–17
臘日の宴で宮外に火が上がり、孫綝が立ち上がろうとすると、孫休が引き止めている間に左将軍張布が剣を抜き、武士三十余人を率いて殿上に駆け上がり、「詔によって反賊孫綝を捕らえる」と叫ぶ。張布は孫綝を引き立てて殿の東に下りて斬り、罪は孫綝一人にあり、ほかは問わないという詔を宣したのち、孫休に五鳳楼に登るよう請う。 演義 第113回 §19–20
第120回で孫休が死ぬと、万彧が幼い孫𩅦に代えて烏程侯孫皓を立てようと言い、左将軍張布も孫皓は才識が明晰で決断力があり帝王にふさわしいと言う。濮陽興が朱太后に奏上して孫皓を立てるが、孫皓が凶暴になって酒色に溺れると、濮陽興と張布が諫め、孫皓は怒って二人を斬り、三族を滅ぼす。 演義 第120回 §1–4
演義と異なる点
孫綝を斬った場面:演義第113回では、張布が剣を抜いて武士三十余人とともに殿上に駆け上がって孫綝を捕らえ、引き立てて下りて自ら斬る。正史では、孫綝が席を立つと丁奉と張布が左右に目配せして彼を縛らせ、孫休の言葉が終わると斬った。 演義 第113回 §19–20正史 呉書 巻19 §100正史 呉書 巻10 §105
赦免の宣布:演義第113回では、張布が孫綝を斬ったのち、罪は孫綝一人にあり、ほかは問わないという詔を宣する。正史では、孫休が孫綝の首を掲げてその配下に、孫綝とともに謀った者はみな赦すと命じた。 演義 第113回 §20正史 呉書 巻19 §100
孫休の寵臣:演義は張布を孫綝の除去と孫皓の擁立にだけ登場させる。正史では孫休が王であったときから左右将督として信任され、即位後は宮中を取り仕切って権勢をふるい、韋曜・盛沖の講論を阻んで孫休の恨みを買った。 演義 第113回 §15演義 第120回 §2正史 呉書 巻3 §37–42正史 呉書 巻20 §39
官職:演義で張布は一貫して左将軍と呼ばれる。正史では長水校尉から輔義将軍・永康侯となり、孫綝を斬ったのち左将軍として中軍督を加えられ、孫皓が即位すると驃騎将軍となり侍中を加えられた。 演義 第113回 §15演義 第120回 §2正史 呉書 巻3 §24 · 29 · 50
孫皓を推した言葉:演義第120回では、張布が孫皓を「才識が明晰で決断力があり、帝王にふさわしい」と言う。正史でこの言葉を言ったのは万彧であり、彼は濮陽興と張布にたびたびこれを語った。 演義 第120回 §2正史 呉書 巻3 §48
朱太后:演義第120回では、濮陽興がひとりで宮中に入り朱太后に奏上する。正史では、濮陽興と張布がともに太后朱氏を説得した。 演義 第120回 §2正史 呉書 巻3 §49
死の経緯:演義第120回では、濮陽興と張布が孫皓を諫めてその場で斬られる。正史では、二人がひそかに後悔しているという万彧の讒言によって朝見の際に捕らえられ、広州へ流される途中で殺されたのであり、諫めたという話はない。三族が滅ぼされたのは両方で同じである。 演義 第120回 §4正史 呉書 巻19 §106正史 呉書 巻3 §51
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率4045+5
- 武力3850+12
- 知力4850+2
- 政治2838+10
- 魅力3040+10
- 徳1555+40
- 処世2532+7
- 文芸3331−2
- 弁舌4050+10
- 用人5048−2
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
正直接の記録なし — 孫綝を縛らせた記録から推定呉書 巻10 §105
正宮中を取り仕切り濮陽興と表裏一体となり、国中が失望した呉書 巻3 §37呉書 巻19 §105
演直接の記録なし — 側近としての役割から推定第113回 §20
正寵臣として権勢をふるい、国中が失望した呉書 巻19 §105
演直接の記録なし — 側近としての役割から推定第113回 §20
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正孫休とひそかに孫綝の除去を謀った呉書 巻19 §98呉書 巻3 §28
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正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。