陸績

正史演義 呉 字 公紀 Lu JiGongji육적공기陆绩

プロフィール
職業正学者 · 鬱林太守所属呉
登場正演収録呉書
出生出身地呉郡 呉県
死因正病死 推定
実在実在言及正12回

人物紹介

陸績は字を公紀といい、呉郡呉県の人で、廬江太守陸康の子である。6歳のとき九江で袁術が出した橘を三つ懐に入れたが取り落とし、帰って母に贈ろうとしたのだと答えたので、袁術は感心した。 正史 呉書 巻12 §18

博学で、天文・暦法・算数を広く究めた。孫権が政事を執ると奏曹掾となったが、剛直な道のために憚られて鬱林太守に出され、偏将軍を加えられた。軍務の中にあっても『渾天図』を作り、『易』に注をつけ、『太玄』を解釈し、32歳で死去した。 正史 呉書 巻12 §20–22

正史を著した陳寿は評で、陸績を揚雄の『太玄』に対する左丘明になぞらえ、そのような器に南越を守らせたのはその人を損なうことではないかと述べた。演義では第38回に孫権が厚く礼遇した江東の士の一人として初めて登場し、全120回のうち2回に登場し、名が回目に入った回はない。第43回で諸葛亮と舌戦を交えて言葉に詰まる。 正史 呉書 巻12 §89演義 第38回 §26演義 第43回 §25–26

正史の記録

陸績は字を公紀といい、呉郡呉県の人である。父の陸康は漢末に廬江太守であった。陸績は6歳のとき九江で袁術に会った。袁術が橘を出すと、陸績は三つを懐に入れたが、帰り際に拝礼して辞去しようとしたところ地に落としてしまった。袁術が「陸郎は客として来て橘を懐に入れるのか」と言うと、陸績はひざまずいて、帰って母に贈ろうとしたのだと答えた。袁術は彼を大いに感心した。 正史 呉書 巻12 §18

孫策が呉にいたとき、張昭・張紘・秦松が上賓となり、四海はまだ太平でないから武力によって治め平定すべきだとともに論じた。年少で末席に座っていた陸績は遠くから大声で、昔、管夷吾は斉の桓公の宰相となって諸侯を九たび会合させ、天下を一たび正したが、兵車を用いなかったと言った。また孔子は「遠方の人が服さなければ、文徳を修めてこれを来たらせる」と言ったのに、いま論じる人々は道徳によって懐け取る術に努めず、武力だけを尊んでいるので、自分は幼い子供ではあるが内心穏やかでないと言った。張昭らは彼を非凡だと思った。 正史 呉書 巻12 §18–19

陸績は容貌が雄壮で博学であり、天文・暦法・算数を究めないものはなかった。虞翻は年長の先輩で名声が高く、龐統は荊州の名士で年もやや上であったが、ともに陸績と親しく交わった。顧雍の子顧邵の伝は、顧邵が若いころ母方の叔父陸績と名を等しくし、陸遜・張敦・卜静らはみなその次であったと記す。 正史 呉書 巻12 §20正史 呉書 巻7 §36–37

龐統伝によれば、周瑜が死ぬと龐統は柩を送って呉に至り、西へ帰ることになったとき人々が昌門に集まったが、陸績・顧邵・全琮もみなそこへ行った。龐統は「陸先生は駑馬だが速く走る力があると言えよう」と言った。陸績と顧邵は龐統に、天下が太平になったら彼とともに四海の士を品評しようと言い、龐統と深く交わりを結んだ。 正史 蜀書 巻7 §4–5

孫権が政事を執ると、陸績を招いて奏曹掾とした。しかし剛直な道のために憚られ、出て鬱林太守となり、偏将軍を加えられ兵2千人を与えられた。陸績は足が不自由で、志は儒学の雅にあったので、これは彼の望むところではなかった。 正史 呉書 巻12 §20

軍務があっても著述をやめず、『渾天図』を作り、『易』に注をつけ、『太玄』を解釈し、いずれも世に伝わった。彼は自分の死ぬ日をあらかじめ知って文を作り、漢の志士である呉郡の陸績は、幼くして『詩』『書』に篤く、長じては『礼』『易』を愛したが、命を受けて南征し、病にかかり厄に遭って不幸な運命に遭ったと嘆いた。また、今から60年後には車は軌を同じくし書は文字を同じくするであろうが、それを見られないのが恨めしいと言った。 正史 呉書 巻12 §21

陸績は32歳で死去した。正史は彼の死んだ年を記していない。陸遜の弟陸瑁の伝によれば、叔父の陸績が早世したとき、二人の息子と一人の娘はみな数歳にすぎなかったので、陸瑁が引き取って養い育て、成長してからようやく送り出した。長男の陸宏は会稽南部都尉、次男の陸睿は長水校尉となった。 正史 呉書 巻12 §22 · 64

陳寿は評で、陸績の揚雄の『太玄』に対する関係は、仲尼に対する左丘明、老聃に対する厳周(荘周)のようなものだと述べた。そして瑚璉のような器でありながら南越を守る任に就いたのは、これもまたその人を損なうことではなかろうかと述べた。 正史 呉書 巻12 §89

演義の描写

演義第38回は、孫策の死後に江東を継いだ孫権が呉会に賓館を開き、顧雍と張紘に四方の賓客を迎えさせたときに江東に来た士を列挙するが、その中に「陸績、字は公紀」がいる。演義は、孫権が彼らを非常に厚く礼遇したとする。 演義 第38回 §26

第43回で諸葛亮が江東の士と舌戦を交えたとき、薛綜が恥じ入って答えられなくなると、座中の一人が言葉を継ぐ。曹操は天子を挟んで諸侯に号令しているとはいえ、なお相国曹参の子孫であり、劉豫州は中山靖王の末裔と言っても確かめようがなく、目に見えるのはむしろを織り草鞋を売っていた男にすぎないのだから、どうして曹操に対抗できようかというのである。諸葛亮が見ると、それは陸績であった。 演義 第43回 §24–25

諸葛亮は笑って「公は袁術の座で橘を懐に入れた陸郎ではないか」と言ったのち、曹操が曹相国の子孫であるなら代々漢の臣であるのに、いま権力を専らにして君主を侮っているのだから、漢室の乱臣であるばかりか曹氏の賊子でもあると反論する。また劉豫州は今上の皇帝が系譜を調べて爵位を賜った皇室の末裔であり、高祖も亭長から身を起こして天下を得たのだから、むしろを織り草鞋を売ったことが何の恥になろうかと言い、子供のような見識では高明な士とともに語ることはできないと叱りつける。陸績は言葉に詰まる。演義はこれ以後、陸績のことを記さない。 演義 第43回 §25–26

演義と異なる点

初登場の姿:演義第38回は、孫権が賓館を開いたのちに江東に来た士の一人として陸績を初めて挙げる。正史で陸績は呉郡呉県の人で、孫策が呉にいたときすでに張昭ら上賓の議論の席の末座で、武力よりも文徳を修めるべきだと述べており、孫権が政事を執ると招かれて奏曹掾となった。 演義 第38回 §26正史 呉書 巻12 §18–20

橘の逸話:演義第43回では、諸葛亮が彼を「袁術の座で橘を懐に入れた陸郎」と呼ぶ一言にのみ出てくる。正史では、6歳のとき九江で袁術が出した橘を三つ懐に入れて取り落とし、母に贈ろうとしたのだと答えたので、袁術は大いに感心した。 演義 第43回 §25正史 呉書 巻12 §18

諸葛亮との舌戦:演義第43回で陸績は諸葛亮と舌戦を交えて言葉に詰まる。正史の陸績伝には諸葛亮と会ったことはなく、諸葛亮伝で諸葛亮が柴桑で孫権を説得するくだりにも、江東の士との問答は出てこない。 演義 第43回 §25–26正史 呉書 巻12 §17–22正史 蜀書 巻5 §12–16

曹操と劉備についての言葉:演義第43回で陸績は、曹操を相国曹参の子孫と言い、劉備をむしろを織り草鞋を売っていた男だとして、曹操には対抗できないと言う。正史には陸績が曹操や劉備を論じた言葉はなく、彼が残した言葉としては、幼いころ武力だけを尊ぶ議論に対して道徳によって懐け取るべきだと述べた言葉と、死ぬ前に作った文がある。 演義 第43回 §24–25正史 呉書 巻12 §18–19 · 21

学識:演義第43回で諸葛亮は陸績を子供のような見識だと叱る。正史で陸績は博学で天文・暦法・算数を広く究め、『渾天図』と『易』の注、『太玄』の解釈が世に伝わり、陳寿は評で彼を揚雄に対する左丘明になぞらえた。 演義 第43回 §26正史 呉書 巻12 §20–21 · 89

友と名声:演義には陸績と虞翻・龐統との交わりは出てこない。正史では虞翻と龐統がともに陸績と親しく交わり、龐統は呉を去るとき陸績を「駑馬だが速く走る力がある」と評し、顧邵は若いころ母方の叔父陸績と名を等しくした。 演義 第38回 §26演義 第43回 §25正史 呉書 巻12 §20正史 蜀書 巻7 §4–5正史 呉書 巻7 §37

官職と死:演義で陸績は第43回を最後に登場せず、官職と死は記されていない。正史では奏曹掾から鬱林太守に出て偏将軍を加えられ、兵2千人を率い、32歳で死去した。 演義 第43回 §26正史 呉書 巻12 §20 · 22

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率3531−4
  • 武力3131±0
  • 知力6235−27
  • 政治4238−4
  • 魅力5540−15
  • 徳7850−28
  • 処世3840+2
  • 文芸9055−35
  • 弁舌5228−24
  • 用人4035−5
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

文芸・学術正90演55 −35

正天文・暦法・算数に通じ、渾天図を作り太玄を解釈した。陳寿の評にも見える呉書 巻12 §20呉書 巻12 §89

演孫権が厚く礼遇した江東の士として紹介される第38回 §26

徳正78演50推定 −28

正母に贈ろうと橘を懐に入れ、剛直な道のために憚られた呉書 巻12 §18呉書 巻12 §20

演直接の記録なし — 橘を懐に入れた陸郎の逸話への言及から推定第43回 §26

弁舌・外交正52演28 −24

正幼くして張昭らの前で文徳を論じ、非凡とされた呉書 巻12 §18

演孔明の反論に言葉に詰まった第43回 §25

近い項目 5件 — 根拠を見る
  • 統率正35演31推定 −4

    正偏将軍として兵2千を与えられたが、望むところではなかった呉書 巻12 §20

    演直接の記録なし — 士人としての事績から推定第38回 §26

  • 武力正31推定演31推定 ±0

    正直接の記録なし — 儒学に志した事績から推定呉書 巻12 §20

    演直接の記録なし — 士人としての事績から推定第38回 §26

  • 政治正42推定演38推定 −4

    正直接の記録なし — 鬱林太守としての事績から推定呉書 巻12 §20

    演直接の記録なし第38回 §26

  • 処世正38演40推定 +2

    正剛直な道のために憚られて鬱林太守に出された呉書 巻12 §20

    演直接の記録なし第38回 §26

  • 識人・用人正40推定演35推定 −5

    正直接の記録なし呉書 巻12 §20

    演直接の記録なし第38回 §26

スペシャル — 才能 正史 +10 · 演義 +0

  • 占術・天文

    正熟達 +10 天文・暦法を広く究めて渾天図を作り、死ぬ日をあらかじめ知った呉書 巻12 §20

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(2回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

所属の変遷

  1. 呉 · 正史 · 正史 巻57 「故鬱林太守陸績」

家族

父母陸康 正史

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。

関連事件(1)

ウィキペディア情報ボックス・原文キーワードの自動照合(推定)を含みます。

関連作品(1)

Wikidataの描写対象・題名の人物名で連結(推定) — 検収前。