秦松
人物紹介
秦松は字を文表といい、広陵の人張紘と同郡の人である。孫策が会稽を占拠して長吏を新たに置いたとき、張昭・張紘・陳端らとともに謀主となり、張紘とともに孫策に待遇されて計略に参与した。正史には独立した伝がなく、呉書巻1「孫破虜討逆伝」、巻8「張厳程闞薛伝」の張紘の記録、巻12「虞陸張駱陸吾朱伝」の陸績の記録に現れる。 正史 呉書 巻8 §2 · 10正史 呉書 巻1 §31正史 呉書 巻12 §18
陳寿は秦松と陳端がともに早く死んだと記すだけで没年を明らかにしておらず、巻8の評にも彼の名はない。巻9に載る孫権の言葉には、曹操が荊州を得て下ってくると豪語したとき、子布と文表が使者を送って迎えるべきだと言ったという一節があるが、陳寿の本文で字が文表である人物は秦松だけである。演義には登場しない。 正史 呉書 巻8 §10 · 63正史 呉書 巻9 §90–91
正史の記録
孫策は浙江を渡って会稽を占拠し、東冶を屠ったのち厳白虎らを撃ち破り、長吏をすべて新たに置いた。孫策は自ら会稽太守を兼ね、呉景を丹楊太守、孫賁を豫章太守、孫輔を廬陵太守、朱治を呉郡太守とした。このとき彭城の人張昭、広陵の人張紘、秦松、陳端らが謀主となった。 正史 呉書 巻1 §31
陸績伝によれば、孫策が呉にいたとき、張昭・張紘・秦松が上賓となり、四海がまだ太平でないので武力を用いて治め平定すべきだとともに論じた。そのとき年少で末座にいた陸績が遠くから大声で、管夷吾は兵車を用いずに諸侯を九たび会合させ天下を一たび正し、孔子は遠方の人が服さなければ文徳を修めて来させると言ったとして、いま論じている方々はただ武力ばかりを尊んでおり、内心穏やかでないと述べた。張昭らは彼を非凡だと思った。 正史 呉書 巻12 §18–19
張紘伝は末尾に、張紘と同郡の人である秦松は字を文表、陳端は字を子正といい、ともに張紘とともに孫策に待遇されて計略に参与したと付け加え、二人とも早く死んだと記す。張紘は広陵の人である。 正史 呉書 巻8 §2 · 10
周瑜魯粛呂蒙伝には、孫権が陸遜と周瑜・魯粛・呂蒙を論じた言葉が載っている。孫権は、孟徳(曹操)が劉琮を得た勢いに乗り、数十万の衆で水軍と歩兵がともに下ってくると豪語したとき、諸将を呼んで取るべき方策を問うたが、誰も先に答えず、子布と文表に至ってはともに使者を送り檄文を整えて彼を迎えるべきだと言ったと回想した。子布は張昭の字であり、陳寿の本文で字が文表である人物は張紘伝の秦松だけである。魯粛はただちに反駁して不可だと言い、急いで周瑜を呼んで迎え撃たせるよう勧めたので、孫権はこれを二つ目の痛快事に数えた。 正史 呉書 巻9 §90–91正史 呉書 巻7 §2正史 呉書 巻8 §10
陳寿の本文は秦松の没年と官職を記していない。巻8の評は、孫策が張紘を張昭に次いで待遇したのにはもっともな理由があったと言うだけで、秦松を別に論じてはいない。 正史 呉書 巻8 §10 · 63
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能力値
演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。
- 統率38
- 武力31
- 知力60
- 政治45
- 魅力45
- 徳45
- 処世42
- 文芸45
- 弁舌48
- 用人40
項目別の根拠
正直接の記録なし呉書 巻8 §10
正直接の記録なし — 参謀から推定呉書 巻8 §10
正直接の記録なし — 武力平定論をともに論じた呉書 巻12 §18
正直接の記録なし呉書 巻8 §10
正直接の記録なし呉書 巻8 §10
正直接の記録なし呉書 巻8 §10
正直接の記録なし — 上賓から推定呉書 巻12 §18
正直接の記録なし — 上賓として議論に参加呉書 巻12 §18
正直接の記録なし呉書 巻8 §10
正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。