呂曠
| 職業 | 正演武将 | 所属 | |
|---|---|---|---|
| 登場 | 正演 | 収録 | |
| 出生 | 出身地 | 東平国 | |
| 死因 | 演戦死 推定 | ||
| 実在 | 実在 | 言及 | 正2回 |
人物紹介
呂曠は東平の人で、袁尚の将であった。正史には独立した伝がなく、魏書巻1の武帝紀と巻6の董二袁劉伝に呂翔とともに一度ずつ現れる。建安8年(203)冬、曹操が袁譚を救うために黎陽に至ると、袁尚は平原の包囲を解いて鄴へ戻ったが、このとき呂翔とともに袁尚に背いて陽平に駐屯し、その衆を率いて降って列侯に封じられた。 正史 魏書 巻1 §77 · 80正史 魏書 巻6 §62
陳寿の本文は彼の字とその後の事績、死を記しておらず、巻1と巻6の評でも彼を取り上げていない。演義では第32回に袁尚の大将として初めて登場し、120回のうち3回に登場し、回目に名が入った回はない。演義は彼を呂翔と兄弟として描き、曹操に降った後、第35回で新野に攻め込んで趙雲の槍に突かれて死ぬとする。 正史 魏書 巻1 §80 · 173正史 魏書 巻6 §62 · 96–97演義 第32回 §13演義 第35回 §32 · 35
正史の記録
建安8年(203)8月、曹操は劉表を討つために出陣して西平に駐屯した。曹操が鄴を離れて南へ向かうと、袁譚と袁尚は冀州をめぐって争い、袁尚に敗れた袁譚は平原へ逃れて守った。袁尚が激しく攻めると、袁譚は辛毗を遣わして降伏を願い、救援を求めた。曹操は軍を返して冬10月に黎陽に至り、子の曹整のために袁譚と婚姻関係を結んだ。 正史 魏書 巻1 §77 · 80正史 魏書 巻6 §62
袁尚は曹操が北へ来ると聞いて平原の包囲を解き、鄴へ戻った。武帝紀は、このとき東平の呂曠と呂翔が袁尚に背いて陽平に駐屯し、その衆を率いて降ったので、曹操が彼らを列侯に封じたと記す。董二袁劉伝は二人を袁尚の将とし、袁尚に背いて太祖に帰順したと記す。 正史 魏書 巻1 §80正史 魏書 巻6 §62
董二袁劉伝は続けて、袁譚がまたひそかに将軍の印を刻んで呂曠と呂翔に与えたと記す。太祖は袁譚が偽りを用いていることを知っていたが、婚姻を結んで安心させ、軍を率いて引き返した。 正史 魏書 巻6 §62–63
陳寿の本文で呂曠が現れるのはこの二か所だけである。彼の字と列侯に封じられた後の事績、死は記されておらず、武帝紀と董二袁劉伝の評も彼を取り上げていない。 正史 魏書 巻1 §80 · 173正史 魏書 巻6 §62 · 96–97
演義の描写
演義第32回で、袁譚が曹操に降ろうとしていると聞いた袁尚は、自ら大軍を率いて黎陽へ袁譚を救いに来る。袁尚が誰が先鋒となるかと問うと、大将の呂曠・呂翔兄弟が名乗り出て、袁尚は兵3万を与えて先に黎陽に着かせる。後に袁譚と袁尚が互いに戦うとき、袁譚の将岑璧が出て罵ると、呂曠が馬を拍ち刀を舞わせて出て行き、数合で岑璧を斬る。 演義 第32回 §12–13 · 19
同じ回で、曹操の軍が黄河を渡ると、袁尚は鄴へ戻りながら呂曠と呂翔に殿を務めさせる。追ってきた袁譚が、父の存命中に二将軍をおろそかに扱ったことはないのに、なぜ弟に従って自分を追い詰めるのかと言うと、二人は馬を下りて袁譚に降る。袁譚は自分ではなく曹丞相に降れと言って二人を連れて曹操に会い、曹操は娘を袁譚の妻とすることを約し、二呂を仲人とする。曹操は黎陽に駐屯した後、二人を列侯に封じて軍に従わせて用いる。 演義 第32回 §27–29
郭図の言に従って袁譚が将軍の印を二つ刻んでひそかに送ると、二呂は印を受け取るとすぐにそれを持って来て曹操に告げる。曹操は、袁譚が二人を内応とし、自分が袁尚を破った隙を狙おうとしているのだと言って、ひとまず受け取っておけと命じ、このときから袁譚を殺す心を抱く。同じ回で曹操は二呂を遣わして袁尚の将馬延と張顗を説いて降らせ、西山を攻めるにあたって、まず二呂と馬延・張顗に袁尚の糧道を断たせる。 演義 第32回 §30–31 · 44
第33回では郭嘉の言に従い、焦触・張南・呂翔・馬延・張顗とともにそれぞれ本部の兵を率い、三路に分かれて幽州を攻めに向かう。高幹が壺関の口を塞いでいると、荀攸が偽りの降伏の計を出し、曹操は降将の呂曠と呂翔を呼んで耳打ちする。呂曠らは兵数十を率いて関の下に至り、曹操は狡猾で自分たちを冷遇するので旧主を奉じたいと言って、関門を開けよと叫ぶ。二人は関の上に上って高幹にその夜曹操の陣営を夜襲しようと持ちかけ、高幹は二呂を先に立てて出たところで伏兵に遭い、その間に楽進と李典が関を奪う。 演義 第33回 §22 · 26–28
第35回で曹操は曹仁・李典と降将の呂曠・呂翔らに兵3万を与えて樊城に駐屯させる。二呂は降って以来寸功も立てていないと言って精兵5千を請い、劉備の首を取って献じると申し出て、曹仁は兵5千を与えて新野へ送る。呂曠は「我こそは大将呂曠である。丞相の命を奉じて汝を捕らえに来た」と叫んで出るが、劉備が出した趙雲と数合も戦わないうちに槍に突かれて馬から落ちる。敗れた兵は戻って曹仁に二呂将軍が殺されたと告げる。 演義 第35回 §29–32 · 35
演義と異なる点
袁尚を離れた経緯:演義第32回で呂曠は袁尚の命で殿を務めていたが、追ってきた袁譚の言葉を聞いて馬を下りて袁譚に降り、袁譚に従って曹操に会う。正史では、袁尚が平原の包囲を解いて鄴へ戻ると、呂曠と呂翔は袁尚に背いて陽平に駐屯し、その衆を率いて曹操に降ったのであり、袁譚に降ったという話はない。 演義 第32回 §27–28正史 魏書 巻1 §80正史 魏書 巻6 §62
呂翔との関係:演義第32回は呂曠と呂翔を兄弟とする。正史の武帝紀は「東平の呂曠・呂翔」と、董二袁劉伝は袁尚の将呂曠・呂翔と並べて記すだけで、二人の関係を明らかにしていない。 演義 第32回 §13正史 魏書 巻1 §80正史 魏書 巻6 §62
岑璧を斬ったこと:演義第32回で呂曠は袁譚の将岑璧を斬る。正史の呂曠の記録には岑璧も、呂曠が戦ったことも出てこない。 演義 第32回 §19正史 魏書 巻1 §80正史 魏書 巻6 §62
袁譚の印:演義第32回で二呂は袁譚がひそかに送った将軍の印を受け取るとすぐ曹操のもとに持って行って告げる。正史の董二袁劉伝は、袁譚がひそかに将軍の印を刻んで二人に与え、太祖(曹操)が袁譚の偽りを知っていたと記すだけで、二人が印をどうしたかは明らかにしていない。 演義 第32回 §30–31正史 魏書 巻6 §62–63
馬延・張顗の降伏:演義第32回で馬延と張顗は曹操が遣わした二呂の説得で降る。正史の武帝紀では袁尚の将馬延・張顗らが陣に臨んで降っており、呂曠が彼らを説いたという話はない。 演義 第32回 §44正史 魏書 巻1 §83
壺関:演義第33回で呂曠と呂翔は高幹に偽って降り、彼を伏兵の中へ導く。正史の武帝紀では、高幹が壺関の口を守ると曹操は楽進と李典を遣わして攻めさせ、建安11年(206)に曹操が自ら壺関を3か月包囲して陥落させたのであり、呂曠は登場しない。 演義 第33回 §26–28正史 魏書 巻1 §93–94
死:演義第35回で呂曠は新野に攻め込み、趙雲の槍に突かれて死ぬ。正史は列侯に封じられた後の呂曠の事績と死を記していない。 演義 第35回 §32 · 35正史 魏書 巻1 §80正史 魏書 巻6 §62
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能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率4548+3
- 武力4050+10
- 知力4040±0
- 政治3532−3
- 魅力4238−4
- 徳3232±0
- 処世5550−5
- 文芸3131±0
- 弁舌3850+12
- 用人3635−1
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
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正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。