演義の場面

諸葛瞻戦死綿竹 諸葛瞻戰死綿竹

事件紹介

この場面は演義第117回の回目「諸葛瞻戦死綿竹」の場面で、蜀漢の滅亡の戦いにおいて鄧艾が涪城まで至ると、後主が諸葛亮の子諸葛瞻に成都の兵を与えて防がせ、諸葛瞻が綿竹で子の諸葛尚とともに戦って死ぬくだりである。 演義 第117回 §27–30 · 43–45

陳寿はこの戦いを蜀書巻5諸葛亮伝に付された諸葛瞻の記事と魏書巻28鄧艾伝、蜀書巻13に載る黄崇の記事に記した。諸葛瞻は景耀6年(263)冬に綿竹で大敗して陣中で死に、年は37であり、長子の諸葛尚もともに死んだ。 正史 蜀書 巻5 §60–61正史 魏書 巻28 §71–72正史 蜀書 巻13 §10

演義の描写

演義第117回で、鄧艾が涪城に至ったとの急報に後主は黄皓と巫女に問おうとするが、巫女は行方知れずで、郤正の言に従い、黄皓のために病と称して引きこもっていた諸葛瞻を三度詔を下して呼ぶ。諸葛瞻は成都の兵7万を受けて出陣し、19歳の長子諸葛尚が先鋒を買って出る。 演義 第117回 §26–30

馬邈が献じた地図で涪城から成都までの道を知った鄧艾は、師纂と鄧忠を綿竹へ送る。二人は八陣を布いた蜀軍の中に「漢丞相諸葛武侯」と書いた旗と四輪車の上の人を見て、孔明が生きていると逃げるが、それは木に刻んだ孔明の像であった。再び戦いに出た二人は諸葛尚に押し返され、諸葛瞻の兵に大敗して傷を負って戻る。 演義 第117回 §31–37

鄧艾は丘本の言に従い、諸葛瞻を琅邪王に上奏するという手紙で懐柔しようとするが、諸葛瞻は手紙を破り使者を斬る。城を出て戦った諸葛瞻は王頎・牽弘の伏兵に敗れて綿竹に入り、呉に救援を求めるが救援の兵は来ない。ついに城門を開いて出て戦い囲まれた諸葛瞻は、矢に当たって落馬すると自ら首をはねて死に、城上でこれを見た諸葛尚も馬を駆って出て戦い死ぬ。張遵・黄崇・李球も戦死し、鄧艾は綿竹を得る。 演義 第117回 §37–47

演義と異なる点

諸葛瞻の行軍:演義第117回で諸葛瞻は鄧艾がすでに涪城に駐屯した後に成都から呼び出される。正史の諸葛瞻の記事では、諸葛瞻は諸軍を率いて涪県に至って留まり、前鋒が破れると綿竹に退いたとし、黄崇の記事は、黄崇が速やかに進んで険所を押さえるよう泣いて勧めたが諸葛瞻はためらったと記す。 演義 第117回 §29–30正史 蜀書 巻5 §61正史 蜀書 巻13 §10

鄧忠と師纂の後退:演義第117回で二人は車上の孔明の木像を見て逃げる。正史鄧艾伝では、鄧忠・師纂は戦って利がなく退いて、敵は撃てないと言い、鄧艾が怒って斬ろうとすると再び戦って大いに破った。 演義 第117回 §33–35正史 魏書 巻28 §72

諸葛瞻の死:演義第117回で諸葛瞻は矢に当たって落馬した後、自ら首をはねる。正史の諸葛瞻の記事は大敗して陣中で死んだとし、鄧艾伝は鄧忠・師纂が諸葛瞻と尚書張遵らの首を斬ったと記す。 演義 第117回 §44正史 蜀書 巻5 §61正史 魏書 巻28 §72

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

演義の登場回 (1)

正史の登場巻 (3)