反乱・政変
李郭之乱 李郭之亂
事件紹介
李郭之乱は、初平3年(192)王允と呂布が董卓を殺した後、董卓の旧将李傕・郭汜・張済らが賈詡の策に従って兵を集め、長安を包囲して陥落させ、呂布を追い出して王允を殺し、朝廷を手中に収めた出来事である。陳寿はこの出来事を魏書巻6の董卓伝に記し、巻7の呂布伝と巻10の賈詡伝、巻1武帝紀にも載せた。 正史 魏書 巻1 §21正史 魏書 巻6 §19–21正史 魏書 巻7 §6正史 魏書 巻10 §70–71
演義は第9回の回目の後半「犯長安李傕聴賈詡」でこの出来事を描き、第10回の冒頭で李傕らが献帝を脅して官職を受けるところまで続ける。 演義 第9回 §36–53演義 第10回 §1–3
正史に見る経過
董卓の娘婿である中郎将牛輔は別に陝県に駐屯し、校尉の李傕・郭汜・張済を分けて遣わし、陳留と潁川の諸県を略奪させた。初平3年(192)夏4月、王允が呂布とともに董卓を殺すと、呂布は李粛を陝県へ送り、詔命によって牛輔を誅しようとした。しかし李粛は牛輔に敗れて弘農へ逃げ、呂布は李粛を誅した。その後、牛輔は陣営から夜に背いて出ていく兵がいると皆が背いたものと思い、金と宝を携えて友人の胡赤児ら五、六人と城壁を越えて黄河を渡ったが、その宝を欲した胡赤児らに首を斬られた。 正史 魏書 巻6 §19正史 魏書 巻1 §21
李傕らが戻った時には牛輔はすでに死んでおり、軍勢は頼るところがなかった。赦免の文書もないうえ、長安で涼州の人をことごとく殺そうとしているという話が伝わると、彼らはそれぞれ散って郷里へ帰ろうとした。牛輔の軍中にいた賈詡は、軍勢を捨てて一人で行けば亭長一人でもあなたがたを縛ることができると言い、むしろ軍勢を率いて西へ進み、行く先々で兵を集めて長安を攻めて董卓の仇を討ち、事が成らなければその時に逃げても遅くはないと述べた。李傕らはこれに従って行く先々で兵を集め、長安に着いた時には軍勢は10余万になっていた。 正史 魏書 巻6 §20正史 魏書 巻10 §70–71
李傕らは董卓の旧部下の樊稠・李蒙・王方らと合わさって長安城を包囲し、10日で城が落ちると城内で呂布と戦って敗走させた。呂布伝は、呂布が董卓を殺した後、涼州の人々を恐れ憎んだため彼らが皆恨み、このため李傕らが結託して戻り長安を攻めたとする。董卓の死から60日で敗れた呂布は、騎兵数百を率いて武関を出て、袁術のもとへ行こうとした。 正史 魏書 巻6 §20正史 魏書 巻7 §6
李傕らは兵を放って長安の老人と若者を略奪し殺し、死体が散乱した。董卓を殺した者たちを誅し、王允の遺体を市にさらした。王允の甥王淩の伝は、李傕・郭汜が王允を殺してその一族をことごとく害し、幼い王淩兄弟だけが城壁を越えて生き延びたと記す。董卓は郿県に葬られたが、大風と暴雨が墓を揺るがし、水が流れ込んで棺槨が漂い流された。 正史 魏書 巻6 §21正史 魏書 巻28 §2
李傕は車騎将軍・池陽侯となって司隷校尉を兼ね、節を仮され、郭汜は後将軍・美陽侯、樊稠は右将軍・万年侯となって、三人は朝廷の政治をほしいままにし、張済は驃騎将軍・平陽侯となって弘農に駐屯した。李傕らは功によって賈詡を侯に封じようとしたが、賈詡は命を救うための計にすぎず何の功があろうかと辞退した。その後、三輔の数十万戸の民は、李傕らの略奪と飢えのために2年の間に互いに食い合ってほとんど尽きた。 正史 魏書 巻6 §21 · 23正史 魏書 巻10 §71
演義の描写
演義第9回で董卓が死ぬと、李傕・郭汜・張済・樊稠は飛熊軍を率いて夜通し涼州へ逃げ、陝西にとどまって赦免を請うが、王允はこの四人だけは赦さないと言う。それぞれ逃げようとする李傕に、謀士賈詡は、軍を捨てて一人で行けば亭長一人でも縛ることができると言い、長安を攻めて董卓の仇を討とうと説き、李傕らは王允がこの地方の人々を一掃しようとしているという噂を流して十余万の軍勢を集める。 演義 第9回 §29 · 36–38
道で出会った董卓の娘婿牛輔が先鋒となって、呂布が遣わした李粛の陣営を夜襲して破り、呂布は敗れて戻った李粛を斬る。翌日、呂布に大敗した牛輔は金と珠を携えて逃げる途中、腹心の胡赤児に殺され、呂布は牛輔の首を献じた胡赤児も斬る。 演義 第9回 §38–41
李傕は、呂布は勇猛だが謀がないとして、谷の入口で呂布を誘い出し、郭汜に背後を突かせ、鉦と太鼓で進んでは退くことを繰り返す。その間に張済と樊稠が二手に分かれて長安を攻め、急いで戻った呂布の前で敵兵が城を包囲する。数日後、董卓の残党李蒙と王方が城内からひそかに門を開けると、呂布はともに関を抜け出そうと王允に勧めたが、王允は身を捧げて死ぬとして断り、呂布は家族を捨てて百余騎で袁術のもとへ行く。 演義 第9回 §41–47
李傕と郭汜は兵を放って大いに略奪し、大臣たちが乱の中で死ぬ。宣平門の楼に登った献帝に、二人が王允さえ引き渡せば退くと言うと、王允は楼から飛び降りて二人の逆賊を罵って死に、その一族も皆殺される。第10回の冒頭で張済と樊稠は献帝を殺そうとする二人を止め、献帝は李傕を車騎将軍・池陽侯・領司隷校尉に、郭汜を後将軍・美陽侯にして、ともに朝政を執らせる。董卓の葬儀は大雷雨と落雷のために三度も行えない。 演義 第9回 §48–53演義 第10回 §1–4
演義と異なる点
兵を起こした経緯:演義第9回で李傕・郭汜・張済・樊稠の四人は、董卓が死ぬとともに涼州へ逃げ、王允に赦免を拒まれて兵を起こす。正史の董卓伝では、李傕・郭汜・張済は牛輔の命で陳留・潁川を略奪して戻ってきたのであり、樊稠は李蒙・王方とともに長安を包囲する時に加わった董卓の旧部下として記される。 演義 第9回 §29 · 36正史 魏書 巻6 §19–20
牛輔の死:演義第9回で牛輔は李傕の先鋒として呂布と戦って敗れて逃げ、胡赤児に殺される。正史の董卓伝では、牛輔は李傕らが戻る前に陣営の騒ぎに驚いて逃げ、胡赤児らに殺されたのであり、彼が破った李粛は詔命を奉じて陝県に来た人物であった。 演義 第9回 §38–41正史 魏書 巻6 §19–20
長安の陥落:演義第9回では、李蒙と王方が城内からひそかに門を開ける。正史の董卓伝では、李蒙・王方は李傕らとともに城を包囲し、城は10日で落ちた。 演義 第9回 §46正史 魏書 巻6 §20
王允の死:演義第9回で王允は宣平門の楼から飛び降り、李傕と郭汜を罵って死ぬ。陳寿の本文は、李傕らが王允を殺してその遺体を市にさらし、一族をことごとく害したとだけ記す。 演義 第9回 §50–51正史 魏書 巻6 §21正史 魏書 巻28 §2
董卓の葬儀:演義第10回では落雷が棺を裂いて三度も葬儀が行えず、肉と骨は雷火に焼かれて消える。正史の董卓伝は、郿県に葬ったが大風と暴雨で水が墓に流れ込み、棺槨が漂い流されたと記す。 演義 第10回 §3–4正史 魏書 巻6 §21
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交戦勢力
| 区分 | 甲 | 乙 |
|---|---|---|
| 勢力 | 李傕勢力, 郭汜勢力 | 後漢 |
| 指揮官 | 李傕, 郭汜, 張済, 樊稠 | 呂布 |
| 兵力 | 比至長安,衆十餘萬 |
勢力・指揮官・兵力・死傷者は原文と照合(3KDEX)。兵力・死傷者は原文に記された数値のみ掲載。 出典:魏書 巻6 §20