琅邪王夫人
人物紹介
琅邪王夫人は呉主孫権の夫人で孫和の母であり、琅邪の人である。陳寿の本文は彼女の名を記さず、「王夫人」「王氏」と呼ぶ。選ばれて宮中に入り、黄武年間に寵愛を受けて孫和を産み、寵愛は歩夫人に次いだ。 正史 呉書 巻5 §21正史 呉書 巻14 §22
孫和が太子になると孫権は彼女を皇后に立てようとしたが、かねて彼女を憎んでいた全公主が少しずつ讒言し、孫権が病床に伏したときには夫人に喜びの色が見えると言った。孫権がひどく責めて怒ると、夫人は憂えて死んだ。のちに孫和の子孫皓が即位し、彼女を大懿皇后と追尊した。 正史 呉書 巻5 §21
陳寿は妃嬪伝の評で、孫権が嫡庶を区別しなかったために閨房と宮廷が乱れたと述べた。演義では第108回に孫和を産んだ「琅琊王夫人」として一度名が見え、全120回のうち1回に登場し、回目に名が入る回はない。 正史 呉書 巻5 §42演義 第108回 §3
正史の記録
呉書巻5妃嬪伝によれば、呉主孫権の夫人王氏は琅邪の人である。夫人は選ばれて宮中に入り、黄武年間に寵愛を受けて孫和を産み、寵愛は歩夫人に次いだ。 正史 呉書 巻5 §21
孫和伝によれば、孫和は幼いころ母の王氏が寵愛を受けていたので可愛がられ、14歳のとき彼のために宮中の護衛を置き、中書令闞沢に書と技芸を教えさせた。赤烏5年(242)春正月、孫和は19歳で太子となった。呉主伝は、このとき百官が皇后と四王を立てるよう上奏すると、孫権は爵位を高めて妃妾を寵愛することは取らないとして、その議を取りやめさせたと記す。 正史 呉書 巻14 §22正史 呉書 巻2 §97
妃嬪伝は、歩夫人が死んだのち孫和が太子に立てられ、孫権が夫人を皇后に立てようとしたと記す。南陽王夫人の記録によれば、孫和が太子になると孫和の母が貴ばれ重んじられ、寵愛を受けていた姫妾たちはみな宮外に出て住むことになった。孫休を産んだ南陽王夫人も公安に出て死に、そこに葬られた。 正史 呉書 巻5 §21 · 23
ところが全公主はかねて夫人を憎み、少しずつ讒言した。孫和伝は、その後王夫人と全公主の間に隙が生じたと記す。孫権が病床に伏したとき孫和が廟で祭祀を行うと、孫和の妃の叔父張休が廟の近くに住んでいて、孫和を自分の家に立ち寄るよう招いた。全公主は人に様子をうかがわせたうえで、太子は廟におらず、もっぱら妃の家に行って謀議していると言い、また王夫人が主上の病床に伏したのを見て喜びの色を浮かべていると言った。 正史 呉書 巻5 §21正史 呉書 巻14 §27
孫権はこのため夫人をひどく責めて怒り、夫人は憂えて死んだ。孫和への寵愛もしだいに薄れ、孫和は廃されることを恐れた。正史は夫人が死んだ年と場所を記していない。 正史 呉書 巻5 §21正史 呉書 巻14 §27
ほかの后妃の記録も全公主と王夫人の隙を記す。孫休の夫人朱氏の記録は、孫和が太子であったとき全公主が王夫人を讒言して害し、太子を廃して魯王孫覇を立てようとしたが、朱公主が従わなかったので隙が生じたと記す。孫亮の夫人全氏の記録によれば、潘夫人母子が寵愛を受けるようになると、全公主は自分が孫和の母と隙があったので、孫権に勧めて孫亮のために全尚の娘を娶らせ、孫亮はついに後継ぎとなった。 正史 呉書 巻5 §31 · 28
赤烏13年(250)8月、孫権は太子孫和を廃して故鄣に住まわせた。孫亮が即位すると孫峻が政治を補佐したが、孫和の側室何姬の記録は、孫峻がかねて全公主に媚びへつらって仕えており、全公主が孫和の母と隙があったので、孫峻に勧めて孫和を新都に移り住ませたと記す。孫峻は使者を遣わして孫和に死を賜った。 正史 呉書 巻2 §108正史 呉書 巻5 §35正史 呉書 巻14 §31
孫和の子孫皓が即位すると、夫人を大懿皇后と追尊し、夫人の三人の弟をみな列侯に封じた。孫皓は即位したその年、父孫和に文皇帝と追諡し、明陵に改葬した。 正史 呉書 巻5 §21正史 呉書 巻14 §32
陳寿は妃嬪伝の評で、遠くは斉の桓公、近くは孫権を挙げ、二人とも士を見抜く明と傑出した人物の志を持ちながら、嫡庶を区別しなかったために閨房と宮廷が乱れ、禍が子孫にまで及んだと述べた。評に王夫人の名は別に出てこない。 正史 呉書 巻5 §42
演義の描写
演義第108回は司馬懿の死後に呉の話へ移り、呉主孫権には先に徐夫人が産んだ太子孫登がいたが、赤烏4年に死んだので次男の孫和を太子に立て、孫和は琅琊王夫人の子であったと記す。 演義 第108回 §3
続いて演義は、孫和が全公主と不仲で公主の讒言を受け、孫権が彼を廃すると孫和は憂えと恨みのうちに死に、さらに潘夫人が産んだ三男孫亮を太子に立てたという。演義で琅邪王夫人の名が出るのはこの一か所だけで、彼女が全公主に讒言されたことや彼女の死は記さない。 演義 第108回 §3–4
演義と異なる点
全公主の讒言:演義第108回で全公主と不仲で讒言を受けるのは孫和である。正史では全公主がかねて王夫人を憎んで讒言し、孫権が病床に伏したときには太子孫和とともに王夫人も讒言した。孫和伝は王夫人と全公主の間に隙が生じたと記す。 演義 第108回 §4正史 呉書 巻5 §21正史 呉書 巻14 §27
憂えて死んだ者:演義第108回では廃された孫和が憂えと恨みのうちに死ぬ。正史で憂えて死んだのは孫権に責められた王夫人であり、孫和は廃されたのち南陽王となり、孫峻が遣わした使者によって死を賜る。 演義 第108回 §4正史 呉書 巻5 §21正史 呉書 巻14 §30–31
孫和の長幼の順:演義第108回は孫和を孫権の次男とする。正史では孫登が孫権の長男、孫慮が孫登の弟、孫和は孫慮の弟である。 演義 第108回 §3正史 呉書 巻14 §2 · 18 · 22
皇后の議:演義は孫権が王夫人を皇后に立てようとしたことを記さない。正史妃嬪伝は、歩夫人が死んだのち孫和が太子に立てられると孫権は彼女を皇后に立てようとしたが、全公主の讒言で孫権が怒り、夫人は憂えて死んだと記す。 演義 第108回 §3–4正史 呉書 巻5 §21
追尊:演義第120回で孫皓は即位すると父孫和を文皇帝と追諡し、母の何姬を太后に尊ぶだけで、祖母の王夫人は出てこない。正史では孫皓が即位すると王夫人を大懿皇后と追尊し、その三人の弟をみな列侯に封じた。 演義 第120回 §3正史 呉書 巻5 §21
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能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率3131±0
- 武力3131±0
- 知力3838±0
- 政治3333±0
- 魅力5042−8
- 徳4545±0
- 処世3238+6
- 文芸3535±0
- 弁舌3535±0
- 用人3333±0
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
10点以上の差がある項目はありません — 演義も正史とほぼ同じように描いています。
近い項目 10件 — 根拠を見る
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。