演義の場面

玄徳用計襲樊城 玄德用計襲樊城

事件紹介

演義第36回の回目「玄徳用計襲樊城」の場面で、呂曠・呂翔の二将を失った曹仁が李典とともに新野へ攻め込むと、劉備の軍師単福(徐庶)が八門金鎖の陣を破って夜襲を防いだ後、空になっていた樊城を関羽に奪わせるくだりである。演義はこの戦いの年を明らかにしない。 演義 第35回 §35–37演義 第36回 §1–10

陳寿の本文にこの戦いはない。蜀書巻10劉彭廖李劉魏楊伝は、劉封が羅侯寇氏の子で長沙劉氏の甥であり、先主が荊州に至った時に養子とした人物だと記す。 正史 蜀書 巻10 §2

演義の描写

演義第35回の終わりで、曹仁は呂曠・呂翔が死ぬと李典の制止を聞かずに2万5千を率いて新野へ向かった。第36回で単福は、曹仁が兵をすべて率いて来れば樊城が空になるとして、その隙を突く計を劉備に耳打ちした。最初の戦いで趙雲に押し返された李典が樊城へ戻ろうと言うと、曹仁は彼を斬ろうとしたが後軍に回し、翌日八門金鎖の陣を敷いた。単福は陣に中心がないとして、趙雲に東南の生門から入って真西の景門から出させ、陣を破った。 演義 第35回 §35–37演義 第36回 §1–6

その夜、曹仁は李典の言を聞かずに劉備の陣を襲ったが炎に阻まれて退き、趙雲に追われて川辺で張飛に出くわし、兵の大半が溺れ死んだ。樊城に着いて城門を開けよと叫ぶと、城の上から関羽が「わしが樊城を奪ってからもう久しい」と叫び、曹仁は夜通し許昌へ逃げる途中、単福という者が計を出したことを知った。 演義 第36回 §7–10

樊城に入った劉備は、県令劉泌の家でその甥寇封を見て養子とし、名を劉封と改めさせた。関羽は、兄上にはすでに子がいるのに養子を迎えれば後に必ず禍乱が生じると言って不快に思った。劉備は趙雲に千の兵で樊城を守らせて新野に戻り、許都では程昱が曹操に単福の本名は徐庶だと告げた。 演義 第36回 §11–14

演義と異なる点

劉封を養子にしたこと:演義第36回で劉備は樊城を奪った後、県令劉泌の甥寇封を見て養子とし、関羽はすでに子がいるのに養子を迎えると反対する。正史の劉封の伝は、劉封は羅侯寇氏の子で長沙劉氏の甥であり、先主が荊州に至った時にまだ跡継ぎの子がいなかったので養って子としたと記す。 演義 第36回 §11–12正史 蜀書 巻10 §2

樊に駐屯した経緯:演義第36回で樊城は、曹仁が駐屯していた城を関羽が奪ったものである。正史の武帝紀は、建安13年(208)劉表が死んだ後に劉備が樊に駐屯したとだけ記し、先主伝も、先主は樊に駐屯していて曹操が宛に着いてからようやくその知らせを聞いたと記す。 演義 第35回 §29演義 第36回 §10正史 魏書 巻1 §104正史 蜀書 巻2 §20

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

演義の登場回 (2)

正史の登場巻 (1)