劉辟
| 職業 | 正君主 演武将 | 所属 | |
|---|---|---|---|
| 登場 | 正演 | 収録 | |
| 死因 | 演戦死 推定 | ||
| 実在 | 実在 | 言及 | 正5回 |
人物紹介
劉辟は汝南の黄巾の集団を率いた人物である。正史には独立した伝がなく、武帝紀・先主伝と于禁の伝に名が見える。何儀・黄邵・何曼らとともにそれぞれ数万の衆を率い、はじめ袁術に呼応し、また孫堅に付き、建安元年(196)に太祖(曹操)の討伐を受けた。 正史 魏書 巻1 §38正史 魏書 巻17 §28
建安5年(200)に曹公が官渡で袁紹と対峙すると、曹公に背いて袁紹に呼応し、許の一帯を荒らした。袁紹が送った劉備とともに動いたが、曹仁が劉備を破ったのち、劉辟の屯営も破られた。 正史 蜀書 巻2 §17–18正史 魏書 巻1 §67
演義では第26回に汝南で暴れ回る黄巾の頭目として初めて登場し、全120回のうち4回に登場するが、名が回目に入った回はない。龔都とともに関羽の前でわざと敗れ、汝南で劉備を迎え入れ、第31回で劉備を救おうと高覧と戦って三合ももたずに死ぬ。 演義 第26回 §18 · 24演義 第28回 §61演義 第31回 §32
正史の記録
武帝紀によれば、汝南と潁川の黄巾の何儀・劉辟・黄邵・何曼らはそれぞれ衆数万で、はじめは袁術に呼応し、ついで孫堅に付いた。建安元年(196)2月、太祖は軍を進めてこれを討ち破り、劉辟・黄邵らを斬ったので、何儀とその衆はみな降伏した。 正史 魏書 巻1 §36 · 38
于禁の伝は同じ戦いを次のように記す。于禁は太祖に従って黄巾の劉辟・黄邵らを征討して版梁に駐屯したが、黄邵らが夜に太祖の陣営を襲うと、麾下を率いて撃ち破り、黄邵らを斬ってその衆をことごとく降伏させた。于禁の伝が斬ったと記すのは黄邵らである。 正史 魏書 巻17 §28
建安5年(200)に曹公が官渡で袁紹と対峙すると、汝南の黄巾劉辟らが曹公に背いて袁紹に呼応した。武帝紀は彼らを「汝南の降賊劉辟ら」と呼び、背いて袁紹に応じ、許の一帯を荒らしたと記す。 正史 蜀書 巻2 §17正史 魏書 巻1 §58 · 67
袁紹は先主(劉備)に兵を率いさせ、劉辟らとともに許の一帯を攻略させた。武帝紀は袁紹が劉備を送って劉辟を助けさせたと記す。このころ関羽が逃れて先主のもとへ帰ってきた。曹公が曹仁を送ってこれを撃ち破ると、劉備は逃げて袁紹の軍中に戻り、曹公はついに劉辟の屯営も破った。 正史 蜀書 巻2 §18正史 魏書 巻1 §67
正史で劉辟の名が出るのはここまでである。武帝紀は建安元年に劉辟を斬ったと記しながら、同じ巻の建安5年の記事に再び彼を記し、先主伝も建安5年のこととして彼を記す。その後の事績と死は陳寿の本文にない。武帝紀の建安6年(201)の記事で、袁紹が劉備に汝南を攻略させたときに呼応したのは、汝南の賊龔都らとなっている。 正史 魏書 巻1 §38 · 67 · 73正史 蜀書 巻2 §17–18
演義の描写
演義第26回で、曹操が許都で関羽の功を祝う宴を開いていると、汝南で黄巾の劉辟と龔都がひどく暴れ回り、曹洪が何度も戦ったが勝てなかったという報せが入る。関羽が名乗り出て出陣すると、汝南の近くで間者として捕らえられてきた孫乾は、乱を避けて汝南をさまよっていたところを劉辟が引き取ってくれたと語る。孫乾は、劉辟と龔都の二人が袁紹に帰順して曹操を攻めるのを助けており、翌日二人がわざと一度敗れるだろうと告げる。 演義 第26回 §18 · 20–22
翌日、龔都が陣前に出て戦い、逃げながら汝南を譲ると言い、劉辟と龔都の二人は負けたふりをして四散する。関羽は州県を奪って許昌に帰る。第27回で孫乾は、関羽が兵を返したのち劉辟と龔都が再び汝南を奪い、自分を河北に遣わして袁紹と好を結び玄徳を招かせたこと、玄徳はすでに汝南へ行って劉辟と合流したことを伝える。 演義 第26回 §23–24演義 第27回 §47–48
第28回で関羽に斬られた蔡陽は、曹操が彼を汝南に送って劉辟を攻めさせた将として登場する。関羽と孫乾が汝南に着くと劉辟と龔都が出迎え、劉辟は、皇叔は数日滞在したが兵が少ないのを見て、再び河北の袁本初のもとへ相談に行ったと言う。河北では袁紹が、荊州へ行って劉表を説くという玄徳に「劉表を得られれば劉辟よりはるかにまさる」と言い、郭図は、劉備は以前劉辟を説きに行ったが事を成し遂げなかったとして、彼を行かせないよう諫める。回の終わりで玄徳が古城を捨てて汝南へ行こうとすると、劉辟と龔都が人を送って招き、玄徳は汝南へ行って駐屯する。 演義 第28回 §36–37 · 41 · 49 · 51 · 61
第31回で荀彧は曹操に、劉備が汝南で劉辟と龔都の衆数万を得て、劉辟に汝南を守らせ、自ら許昌を攻めに来ると知らせる。夏侯惇が背後に回って汝南を破ると、劉辟は城を捨てて逃げ、夜明けごろ敗残兵千余騎を率い、玄徳の家族を護送して、ひとり逃れてきた玄徳と出会う。 演義 第31回 §22 · 26–27 · 29–30
前方では張郃が、山の麓では高覧が道をふさぐと、玄徳は天を仰いで叫び、剣を抜いて自ら首をはねようとする。劉辟は急いで止め、「わたしが死を賭して戦い、道を切り開いて将軍をお救いします」と言って高覧と打ち合うが、三合も戦わぬうちに高覧の一刀に斬られて馬から落ちる。その直後、趙雲が陣を突き破って現れ、高覧を槍で突き落とす。 演義 第31回 §31–33
演義と異なる点
最初の討伐:演義第12回で曹操は汝南・潁川の黄巾何儀と黄邵を討って斬るが、この戦いに劉辟は登場しない。正史の武帝紀は、建安元年(196)の同じ討伐で劉辟・黄邵らを斬ったと記す。 演義 第12回 §24 · 33正史 魏書 巻1 §38
関羽との関係:演義第26回で関羽は曹操の命により汝南の劉辟と龔都を討ちに行き、二人のわざとの敗北によって汝南を取り戻す。正史の先主伝では、袁紹が先主に劉辟らとともに許の一帯を攻略させ、そのころ関羽が逃れて先主のもとへ帰ってきた。関羽が劉辟を討ったという記録は陳寿の本文にない。 演義 第26回 §18 · 24正史 蜀書 巻2 §18正史 魏書 巻1 §67
劉備と合流した経緯:演義第27〜28回で劉備は、袁紹のもとから抜け出す計略として汝南の劉辟のもとへ行き合流する。正史では袁紹が先主に兵を率いさせ、劉辟らとともに許の一帯を攻略させ、武帝紀は袁紹が劉備を送って劉辟を助けさせたと記す。 演義 第27回 §48演義 第28回 §41正史 蜀書 巻2 §18正史 魏書 巻1 §67
劉辟を討った者:演義で曹操は第26回に関羽を、第28回に蔡陽を送って劉辟を討たせる。正史の武帝紀では、曹仁が劉備を撃ち破ったのち劉辟の屯営も破った。先主伝では、蔡陽は龔都らと合流した先主を討ちに行き、先主に殺される。 演義 第26回 §18–19演義 第28回 §37正史 魏書 巻1 §67正史 蜀書 巻2 §18
汝南を失ったこと:演義第31回では、劉備が許昌を攻めに出ている間に夏侯惇が汝南を破り、劉辟が城を捨てて逃げる。正史の武帝紀の建安6年(201)の記事では、曹操が南へ劉備を討つと劉備は劉表のもとへ逃れ、龔都らはみな散り散りになり、ここには劉辟も夏侯惇も登場しない。 演義 第31回 §22 · 27正史 魏書 巻1 §73
死:演義第31回で劉辟は劉備を救おうと高覧と戦い、三合ももたずに斬られる。正史の武帝紀は建安元年(196)に劉辟を斬ったと記すが、建安5年(200)に再び彼が登場し、その後の死は記さない。 演義 第31回 §32正史 魏書 巻1 §38 · 67
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能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率4240−2
- 武力4035−5
- 知力3245+13
- 政治3133+2
- 魅力4850+2
- 徳2280+58
- 処世3545+10
- 文芸3131±0
- 弁舌3338+5
- 用人3140+9
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
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正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。