演義の場面
龐士元議取西蜀
事件紹介
龐士元議取西蜀は、演義第60回の回目「龐士元議取西蜀」の場面であり、劉備の入蜀の発端である。張松が地図を献じ、法正が劉璋の書状を携えて来ると、同じ宗族を討つことはできないとためらう劉備を龐統が権道をもって説き伏せて西川へ兵を起こさせ、涪城の会見ではその場で劉璋を殺すよう勧める。 演義 第60回 §34 · 45 · 48–51 · 67–68
陳寿の本文にも、張松・法正の策と、涪県の会見で劉璋を襲おうという龐統の進言が先主伝・龐統伝・法正伝に載っている。 正史 蜀書 巻2 §27–29正史 蜀書 巻7 §7 · 15–16
演義の描写
演義第60回で、荊州の境に入った張松は趙雲・関羽の出迎えを受け、劉備は諸葛亮・龐統とともに自ら出て三日のあいだ宴を張りながらも西川のことを口にしない。出立の日に劉備が涙を流すと、張松は西川をまず基盤とし、漢中と中原を図るよう勧めて、地理・道のり・要害・倉庫を記した西川地図を献じ、法正・孟達を腹心として紹介する。 演義 第60回 §22–35
張松の言に従い、劉璋は黄権・王累の諫言を退けて法正を荊州へ遣わす。法正が益州を取るよう勧めても、劉備は劉璋が同じ宗族であるから図ることは忍びないと言い、何事も曹操と反対にしてこそ事を成すのであって、小さな利のために天下の信義を失うことはできないと言う。龐統は、決すべき時に決しないのは愚かであり、弱きを併せ昧きを攻め、逆に取って順に守るのは湯王・武王の道であるから、事が定まった後に大国に封じてやればよいと説き伏せる。 演義 第60回 §38–51
劉備はその言葉を金石のようだと言い、諸葛亮・関羽・張飛・趙雲に荊州を任せたうえで龐統を軍師とし、黄忠・魏延とともにその年の冬に西川へ向かう。涪城で劉璋と会見した後、龐統は翌日の宴席の幕の陰に刀斧手を伏せ、杯を投げるのを合図に劉璋を殺して成都へなだれ込もうと言い、法正も口添えする。劉備は、初めて蜀の地に来て恩義と信義をまだ立てていないとして退ける。 演義 第60回 §51–54 · 63–70
演義と異なる点
張松と劉備:演義第60回で、張松は許昌からの帰り道に荊州に立ち寄って劉備に西川地図を献じ、法正・孟達を内応として推挙する。正史法正伝では、張松が帰って劉璋に劉備と結ぶよう勧めて法正を使者に推挙し、戻った法正が劉備の雄略を称えると、二人はひそかに劉備を奉戴しようと謀った。陳寿の本文は、張松が劉備に直接会ったとは記さない。 演義 第60回 §29–35正史 蜀書 巻7 §15正史 蜀書 巻1 §15
涪城の計:演義第60回で、龐統は宴席で劉璋を殺そうと言う。正史龐統伝で龐統は、この会見に乗じて劉璋を捕らえれば兵を用いずに一州を平定できると言い、先主伝は張松が法正に命じて申し上げさせ、龐統も進言したと記す。劉備は、他国に入ったばかりで恩義と信義がまだ顕れていないとして退けた。 演義 第60回 §67–68正史 蜀書 巻7 §7正史 蜀書 巻2 §28–29
黄権と王累:演義第60回で、黄権は劉璋の衣の裾をくわえて諫めて前歯を二本折り、王累は城門に逆さに吊り下がって諫め、縄を切って落ちて死ぬ。正史劉璋の伝は、黄権が利害を述べ、王累が州の門に逆さに吊り下がって諫めたが、劉璋はひとつも受け入れなかったと記すのみである。 演義 第60回 §55–60正史 蜀書 巻1 §16
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