演義の場面
降孫皓三分帰一統 降孫皓三分歸一統
事件紹介
この場面は演義第120回の回目「降孫皓三分帰一統」の場面で、呉の滅亡の戦いの末に王濬が石頭城に入ると呉主孫皓が自ら身を縛って降伏し、洛陽で帰命侯となり、三国が晋の司馬炎に帰するくだりである。演義は、呉の4州・43郡・313県がすべて晋に帰したという。 演義 第120回 §54–56 · 60–61
陳寿は孫皓の降伏を呉書巻3三嗣主伝に記した。天紀4年(280)3月壬申、王濬が最初に到着して孫皓の降伏を受け、孫皓は帰命侯となって太康元年5月に洛陽に着いた。 正史 呉書 巻3 §85
演義の描写
演義第120回で晋の水陸の軍が押し寄せると、呉の兵と民は旗を見ただけで降伏し、臣下たちはあらゆる禍は岑昏の罪だとして孫皓の命を待たずに彼を切り刻む。大船と2万があれば破れると言った陶濬は張象とともに水軍を率いて出るが、北西の風に旗が倒れ、兵たちは散り散りに逃げる。王濬は風波を冒して三山を過ぎ石頭城へ進み、降伏した張象が城門を開いて晋の兵を入れる。 演義 第120回 §51–54
晋の兵が城に入ったと聞いて孫皓は自ら首をはねようとするが、中書令胡沖と光禄勲薛瑩が安楽公劉禅に倣うよう言うと、棺を車に載せ自ら身を縛り、文武の官員を率いて王濬の軍前に赴き降伏する。王濬は縛めを解き棺を焼いて王の礼で遇する。司馬炎は杯を挙げてこれは羊祜の功だと言い、彼が見られなかったことを惜しみ、孫秀は南に向かって慟哭する。 演義 第120回 §55 · 57–58
洛陽に来た孫皓に司馬炎がこの座を設けて久しく待っていたと言うと、孫皓は自分も南方でこの座を設けて陛下を待っていたと答える。南方で人の目をえぐり顔の皮を剥いだ理由を問う賈充には、主君を殺した臣と奸悪で不忠な者に用いる刑罰だと答えて彼を恥じ入らせる。孫皓は帰命侯となり、演義はこれによって三国が晋の司馬炎に帰して統一の基となったとして、「天下の大勢は、合すること久しければ必ず分かれ、分かれること久しければ必ず合す」と結ぶ。 演義 第120回 §59–61
演義と異なる点
孫皓の降伏:演義第120回で孫皓は晋の兵が城に入ると自害しようとしたが、胡沖・薛瑩の言に従い自ら身を縛って王濬の軍営へ赴く。正史三嗣主伝では、王濬がまもなく到着し司馬伷・王渾も国境に迫ると、孫皓は薛瑩・胡沖らの計により三人に使者を分けて送って降伏の書を奉り、壬申に最初に到着した王濬が降伏を受けた。司馬伷は孫皓が自分に印綬を送ってきたとして使者を遣わして護送した。 演義 第120回 §55正史 呉書 巻3 §83 · 85
孫皓の死:演義第120回は呉主孫皓が太康4年に死んだとする。正史三嗣主伝は孫皓が太康5年に洛陽で死んだと記す。 演義 第120回 §61正史 呉書 巻3 §86
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