曹袞

正史 魏 Cao Gun조곤曹衮

プロフィール
職業正その他 · 中山王所属魏
登場正収録魏書
出生正? 推定出身地沛国 譙県 推定
死去正235年 推定死去地
死因正病死 推定
実在実在言及正8回

人物紹介

曹袞は魏の武皇帝曹操の子で、杜夫人が生んだ。建安21年(216)に平郷侯に封じられた後、東郷侯・賛侯を経て、黄初年間に公・北海王・賛王へと進み、濮陽に移封され、太和6年(232)に中山王となった。幼いころから学問を好み、十余歳ですでに文章を綴ることができた。 正史 魏書 巻20 §2 · 23 · 25–26

以前入朝した際に京都の禁令を犯したことで青龍元年(233)に弾劾され、県二つ・750戸を削られ、翌年返還された。青龍3年(235)秋に病にかかってその年に死去し、著した文章は合わせて2万余言であった。 正史 魏書 巻20 §27 · 31正史 魏書 巻3 §44

正史の魏書巻20武文世王公伝に伝がある。陳寿は巻末の評で、魏の王・公たちは封国の名があるだけで社稷の実はなく、禁令と監視に隔てられて牢獄に閉じ込められたのと変わらなかったと述べた。演義には登場しない。 正史 魏書 巻20 §22–31 · 93

正史の記録

武皇帝曹操には息子が二十五人いたが、杜夫人は沛穆王曹林と中山恭王曹袞を生んだ。 正史 魏書 巻20 §2

曹袞は建安21年(216)に平郷侯に封じられた。幼いころから学問を好み、十余歳ですでに文章を綴ることができた。書を読むたびに、文学や側近たちは精力を使いすぎて病気になるのではないかと常に心配し、たびたび止めたが、生まれつき好むところであったため、やめることができなかった。建安22年(217)に東郷侯に移封され、その年さらに賛侯に改封された。 正史 魏書 巻20 §23

黄初2年(221)に爵位が公に進むと、官属たちはみな祝った。曹袞は「深宮の中に生まれて農事の苦労を知らなければ、驕りと放逸の過ちが多くなるものだ。諸賢がすでに私の慶事を祝ったのだから、私の欠けたところを補ってほしい」と言った。兄弟たちが遊び楽しむたびに、曹袞はひとり経典を深く思索した。 正史 魏書 巻20 §23–24

文学と防輔は、詔を受けて公の挙措を見守っているのだから、過ちがあれば上奏し、善いことがあればそれも知らせるべきだとして、ともに上表して曹袞の美点を称えた。曹袞はこれを聞いて大いに驚き恐れ、身を修め自らを守るのは常人の行いにすぎないのに、それを上に知らせたのは自分の負担を増すだけであり、善いことがあれば知られないことを心配する必要はないのに、急いでこのようにしたのは自分のためにならないと文学を責めた。陳寿は、彼の戒め慎むさまはこのようであったと記した。 正史 魏書 巻20 §24–25

黄初3年(222)に北海王となった。その年、黄竜が鄴の西の漳水に現れると、曹袞は上書して賛頌した。詔によって黄金十斤を賜り、昔、唐叔は禾を献じ、東平王は頌を献じたが、これはみな骨肉が賛美して至親の情を明らかにしたものであるとし、王は古い典籍を精しく研究し、道の真を深く味わって、文章の雅やかさが輝いており、甚だ嘉する、明徳を慎み守って令名を最後まで保てと述べた。 正史 魏書 巻20 §25–26

黄初4年(223)に賛王に改封され、7年(226)に濮陽に移封された。太和2年(228)に封国へ赴き、倹約を尊んで妃や妾に糸を紡ぎ布を織らせ、庶民の家の仕事を習わせた。太和5年(231)冬に入朝し、6年(232)に中山に改封された。 正史 魏書 巻20 §26

これより先、曹袞は入朝した際に京都の禁令を犯した。青龍元年(233)に有司が曹袞を弾劾すると、詔は、王は平素から敬い慎んでいたのに偶然このようになったのだから、議親の典によって議せよと言った。有司が固執すると、詔を下して県二つ・750戸を削った。曹袞は憂え恐れて官属をいっそう厳しく戒め、皇帝はその心を嘉して青龍2年(234)に削った県を返した。 正史 魏書 巻20 §27

青龍3年(235)秋に曹袞が病にかかると、詔によって太医を遣わして病状を診させた。殿中と虎賁が皇帝の手詔と珍しい料理を携えて相次いで訪れ、皇帝はさらに太妃と沛王曹林を遣わしてともに見舞わせた。 正史 魏書 巻20 §27

病が重くなると、曹袞は官属たちに、自分はもともと倹約を好み、聖朝も終制の詔を明らかにして天下の法としたのだから、息が絶えた日から殯と葬儀に至るまで、努めて詔に従えと命じた。また、昔、衛の大夫蘧瑗が濮陽に葬られ、その墓を眺めてはいつもその遺風を思っていたとして、自分の墓域を必ずその傍らに造らせた。礼に男子は婦人の手で死なないとあるとして東堂を急いで完成させ、堂ができると遂志之堂と名づけ、病身を輿に乗せて行って住んだ。 正史 魏書 巻20 §28–29

曹袞は世子に、幼くてまだ義方を聞かないうちに早く君主となったため、楽しみだけを知って苦しみを知らず、必ず驕りと奢りで過ちを犯すであろうと戒めた。大臣には必ず礼をもって接し、大臣でなくとも年長者には答拝し、兄には敬意をもって仕え、弟は慈しみをもっていたわれと言った。兄弟によくない行いがあれば膝を交えて諫め、従わなければ涙を流して諭し、それでも改めなければその母に告げ、なお改めなければ上奏して封国を辞退せよと言った。寵を守って禍に遭うよりは、貧賤でも身を全うするほうがよいというのである。そして閨門の内のことは太妃の命を奉じ、門外のことは沛王の教えを受けよと言った。 正史 魏書 巻20 §29–31

曹袞はその年に死去した。明帝紀は、青龍3年(235)冬10月己酉の日に中山王曹袞が死去したと記す。詔により沛王曹林を留めて葬儀を終えさせ、大鴻臚に節を持たせて喪事を取り仕切らせ、宗正が弔問して祭祀を行い、贈り物はきわめて手厚かった。彼が著した文章は合わせて2万余言で、才は陳思王曹植に及ばなかったが、彼と肩を並べることを好んだ。子の曹孚が跡を継ぎ、景初・正元・景元年間に食邑がたびたび加増され、以前のものと合わせて3400戸となった。 正史 魏書 巻20 §31正史 魏書 巻3 §44

陳寿は巻20末の評で、魏の王・公たちは封国と封土という名があるだけで社稷の実はなく、禁令と監視に隔てられて牢獄に閉じ込められたのと変わらず、爵位と称号が定まらず大小の封国が年ごとに変わったと述べた。そして骨肉の恩情が損なわれ、「常棣」の義が廃れたとして、制度の弊害がここまで至ったのかと嘆いた。 正史 魏書 巻20 §93

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史
  • 統率31
  • 武力31
  • 知力45
  • 政治50
  • 魅力50
  • 徳84
  • 処世64
  • 文芸78
  • 弁舌40
  • 用人40
各項目100点

項目別の根拠

正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

所属の変遷

  1. 魏 · 正史 · 正史 巻20 「黃初二年,進爵爲公,官屬皆賀」

家族

父母曹操 正史
兄弟姉妹曹沖 正史, 曹昂 正史, 曹彪 正史, 曹均 正史, 曹宇 正史, 曹徽 正史, 曹整 正史, 曹熊 正史, 秦朗 正史, 曹節 演義, 曹峻 正史, 曹林 正史, 曹丕 正史, 曹植 正史, 曹彰 正史, 曹幹 正史

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。