正反乱を起こしたが諸葛亮に討伐された蜀書 巻13 §49
演雍闓・朱褒を殺して投降し、益州太守となった第87回 §21
高定は越嶲の夷族の王である。李厳が犍為太守であったとき、兵を送って新道県を包囲したが、李厳の救援軍に破られて敗走し、先主の死後には雍闓・朱褒とともに南方で背いた。 正史 蜀書 巻10 §42正史 蜀書 巻3 §4正史 蜀書 巻13 §15
建興3年(225)、諸葛亮は南征に際してまず越嶲に進み、彼を討伐した。諸葛亮が雍闓を討つため出発して途上にあったとき、雍闓はすでに高定の部曲に殺されていた。 正史 蜀書 巻3 §6正史 蜀書 巻13 §15 · 27 · 49
正史には独立した伝がなく、後主伝と李厳・李恢・呂凱・張嶷の伝に名が見える。陳寿の本文は彼の字・出身・死を記していない。演義では第87回の一回にのみ越嶲郡太守として登場し、名は回目に入らない。演義は、彼が諸葛亮の計略によって雍闓を疑うようになり、雍闓と朱褒を次々に討ち、その首級を献じて益州太守となる姿を描く。 正史 蜀書 巻3 §4正史 蜀書 巻10 §42正史 蜀書 巻13 §15 · 27 · 49演義 第87回 §2 · 19–26
成都が平定されたのち、李厳は犍為太守・興業将軍となった。建安23年(218)、盗賊の馬秦・高勝らが郪県で起こって資中県にまで至ると、李厳は郡の兵五千人だけを率いてこれを討伐した。李厳伝はこれに続けて、越嶲の夷帥高定が兵を送って新道県を包囲すると、李厳が馬を馳せて救援に赴き、賊はみな破れて逃げたと記す。李厳は輔漢将軍を加えられた。 正史 蜀書 巻10 §42
後主伝は、建興元年(223)夏に牂牁太守朱褒が郡を擁して反乱を起こし、これより先に益州郡の豪族雍闓が反乱を起こして太守張裔を呉に送り、郡に拠って服さず、越嶲の夷王高定も背いたと記す。李恢伝は、先主が死去すると、高定は越嶲でほしいままに振る舞い、雍闓は建寧で跋扈し、朱褒は牂牁で反乱を起こしたと記す。 正史 蜀書 巻3 §4正史 蜀書 巻13 §15
建興3年(225)春3月、丞相諸葛亮は南方の四郡を征討した。諸葛亮はまず越嶲に進み、李恢は道に沿って建寧へ向かった。諸葛亮が雍闓を討とうと出発して途上にあったとき、雍闓はすでに高定の部曲に殺されていた。 正史 蜀書 巻3 §6正史 蜀書 巻13 §15 · 27
諸葛亮は南方に至って上表し、永昌郡の吏呂凱と府丞王伉らが十余年にわたり忠節を守り、雍闓と高定がその東北を圧迫したが、呂凱らは義を守って彼らと交わらなかったと述べた。 正史 蜀書 巻13 §27
張嶷伝は、越嶲郡では諸葛亮が高定を討伐して以後、叟夷がたびたび反乱を起こして太守の龔禄と焦璜を殺し、それ以後太守はあえて郡に赴かず、八百余里離れた安定県にとどまったため、郡は名ばかりであったと記す。陳寿の本文は、高定が討伐されたのちどうなったかを記していない。 正史 蜀書 巻13 §49 · 15
演義第87回、建興3年に益州から急報が届く。蛮王孟獲が蛮兵十万を起こして国境を侵し、建寧太守雍闓が孟獲と結んで反乱を起こし、牂牁郡太守朱褒と越嶲郡太守高定の二人は城を献じたというのである。三人の配下の兵はみな孟獲の道案内となって永昌郡を攻める。諸葛亮が自ら大軍を率いて来ると、雍闓は兵を三路に分け、高定が中路を受け持ち、鄂煥を前部先鋒とする。 演義 第87回 §2 · 10
鄂煥が魏延・張翼・王平に生け捕られると、諸葛亮は縄を解いて酒食でもてなし、高定は忠義の士であるが雍闓に惑わされたのだと言って、高太守に早く帰順するよう伝えよと送り返す。高定は感激するが、雍闓がこれを反間の計だと言うと半信半疑になる。続いて雍闓と高定の兵が蜀の陣営を攻めて伏兵にかかり多数が捕らえられると、諸葛亮は高定の者は助け雍闓の者は殺すという噂を流したうえで全員を放ち、高定の者たちには、雍闓が高定と朱褒の首級を献じると言ってきたとわざと声高に告げる。 演義 第87回 §11–16
高定が虚実を探らせに送った者が捕らえられてくると、諸葛亮はわざと彼を雍闓の者と見なしたふりをして、高定と朱褒の首級を献じると約束しながらなぜ期日に遅れたのかと叱り、雍闓宛ての密書を渡す。書状を読んだ高定は大いに怒って鄂煥と相談し、その言に従って宴を設けて雍闓を招くが、雍闓は疑って来ない。その夜、高定が雍闓の陣営に攻め込むと、雍闓の兵は自ら乱れ、山道を逃げる雍闓は待ち伏せていた鄂煥の戟に突かれて落馬し、鄂煥がその首を斬る。 演義 第87回 §17–21
高定が雍闓の首級を献じると、諸葛亮は偽りの降伏だとして彼を斬れと命じ、朱褒がひそかに送ってきたという降書を見せる。高定はそれは朱褒の反間の計だと言い、朱褒を捕らえてくると申し出る。高定は鄂煥とともに朱褒の陣へ行って朱褒を責め、鄂煥が戟で朱褒を突いて馬から落とす。高定が朱褒の首級を献じると、諸葛亮はわざと二人の逆賊を殺させて忠心を示させたのだと言い、高定を益州太守として三郡を総べさせ、鄂煥を牙将とする。演義はその後高定を記さない。 演義 第87回 §22–26
身分:演義第87回で高定は越嶲郡太守で、城を献じて孟獲の道案内となる。正史では後主伝で越嶲の夷王、李厳伝で越嶲の夷帥と記され、陳寿の本文には孟獲は登場しない。 演義 第87回 §2正史 蜀書 巻3 §4正史 蜀書 巻10 §42正史 蜀書 巻5 §24
背いた時期:演義第87回では建興3年、孟獲の反乱に合わせて起こる。正史では建興元年(223)の朱褒の反乱より前にすでに背いていたと記され、それ以前にも新道県を包囲して李厳に破られたことがある。 演義 第87回 §2正史 蜀書 巻3 §4正史 蜀書 巻10 §42
雍闓の死:演義第87回では、諸葛亮の密書を見た高定が雍闓の陣営を攻め、配下の鄂煥が雍闓を突いて首を斬る。正史呂凱伝は、諸葛亮が雍闓を討とうと出発して途上にあったとき、雍闓はすでに高定の部曲に殺されていたとのみ記し、諸葛亮の計略は出てこない。 演義 第87回 §18–21正史 蜀書 巻13 §27
朱褒の死:演義第87回では、高定配下の鄂煥が朱褒を突き殺し、高定がその首級を献じる。正史の陳寿の本文は朱褒が牂牁で反乱を起こしたと記すのみで、彼がどのように死んだかは記していない。 演義 第87回 §25–26正史 蜀書 巻3 §4正史 蜀書 巻13 §15 · 30
結末:演義第87回で高定は諸葛亮に降伏し、益州太守となって三郡を総べる。正史では諸葛亮が南征に際してまず越嶲に進んで高定を討伐しており、彼が降伏したとか官職を受けたという記録はない。 演義 第87回 §26正史 蜀書 巻13 §15 · 49
李厳の救援:正史李厳伝で高定が新道県を包囲して李厳に破られ敗走した件は、演義第87回には出てこない。 正史 蜀書 巻10 §42演義 第87回 §2–26
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正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
正反乱を起こしたが諸葛亮に討伐された蜀書 巻13 §49
演雍闓・朱褒を殺して投降し、益州太守となった第87回 §21
正先主が死ぬと背き、越嶲でほしいままに振る舞った蜀書 巻3 §4蜀書 巻13 §15
正直接の記録なし蜀書 巻13 §27
演鄂煥の策を受け入れて雍闓の陣を攻め、逃げる雍闓を鄂煥が斬った第87回 §19
正新道県を包囲したが李厳の救援に破られて逃走蜀書 巻10 §42
演中路の五、六万を受け持ち、鄂煥を先鋒とした第87回 §10
正直接の記録なし — 夷王としての事績から推定蜀書 巻10 §42
演直接の記録なし — 夷族の将としての事績から推定第87回 §21
正直接の記録なし蜀書 巻13 §15
正直接の記録なし — 越嶲で衆を率いた事績から推定蜀書 巻13 §15
正直接の記録なし蜀書 巻13 §15
演直接の記録なし第87回 §10
正直接の記録なし蜀書 巻13 §15
演直接の記録なし第87回 §25
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。