陳表
人物紹介
陳表は字を文奥といい、呉の将陳武の庶子である。幼いころから名を知られ、太子孫登の東宮で諸葛恪・張休・顧譚とともに仕え、黄龍元年(229)に孫登が皇太子となると翼正都尉となり、彼らとともに四友と呼ばれた。 正史 呉書 巻10 §38正史 呉書 巻14 §2–3
父が敵陣で死んだので将として用いてほしいと願い出て兵を率い、嘉禾3年(234)から新安都尉として3年在任して兵1万余人を得た。鄱陽の民呉遽らが乱を起こすと境界を越えて討伐し、偏将軍となり都郷侯に進んで章阬に駐屯し、34歳で死んだ。 正史 呉書 巻10 §39 · 41–43
正史の呉書巻10程黄韓蔣周陳董甘淩徐潘丁伝に、陳武の伝に続いて伝がある。巻末の評は、彼は武門の庶子でありながら貴族の子弟や名士と肩を並べ、群を抜いて秀でていたと述べた。演義には登場しない。 正史 呉書 巻10 §37–44 · 109
正史の記録
陳表は字を文奥といい、陳武の庶子である。幼いころから名を知られ、諸葛恪・顧譚・張休らとともに東宮に仕え、みな互いに親しい友となった。孫登伝によれば、魏の黄初2年(221)に孫権が長男の孫登を太子に立て、優れた士を選んで賓客・友とした際、諸葛恪・張休・顧譚・陳表らが選ばれて入り、『詩経』と『書経』を講じ、外出するときは騎射に従った。 正史 呉書 巻10 §38正史 呉書 巻14 §2
太傅張温が、中庶子は最も身近で問答する役目なので優れた徳を備えた者を用いるべきだと言うと、陳表らを中庶子とした。黄龍元年(229)に孫権が帝号を称して孫登が皇太子となると、諸葛恪を左輔、張休を右弼、顧譚を輔正、陳表を翼正都尉とし、これを四友と呼んだ。陳表の伝も、彼が太子中庶子に移り翼正都尉に任じられたと記す。 正史 呉書 巻14 §3正史 呉書 巻10 §38
尚書曁艶も陳表と親しかった。のちに曁艶が罪を得ると、当時の人々はみな自分の身を守るのに汲々とし、日ごろ厚く信じ合っていた仲でも言葉は冷淡であったが、陳表だけはそうしなかったので、士人はこのことで彼を重んじた。 正史 呉書 巻10 §38
黄龍元年(229)に兄の陳脩が死んだのち、陳表の母が陳脩の母に仕えようとしなかったので、陳表は母に、兄が不幸にも早く死んで自分が家の事を取り仕切ることになった以上、嫡母を奉じるべきだと言った。母が情を曲げて嫡母に従ってくれるならそれが何よりの願いだが、それができないならば出て別に住むしかないと言った。これによって二人の母は感じ悟り、睦まじく暮らした。 正史 呉書 巻10 §36 · 38–39
陳表は父が敵陣で死んだので、将として用いてほしいと願い出て兵500人を率いた。戦士の力を得ようと心を尽くして遇したので、兵たちはみな彼を慕って従い、喜んで命を投げ出した。そのころ官の物を盗んだ者があり、無難兵の施明が疑われたが、施明はきわめて過酷な拷問にも死んでも白状しなかった。廷尉がこれを報告すると、孫権は陳表が健児の心をよくつかむとして、施明を陳表に引き渡し、自分のやり方で実情を探らせた。 正史 呉書 巻10 §39–40
陳表はすぐに枷を壊して外し、沐浴させて衣服を着替えさせたうえ、酒食を手厚く用意して喜ばせながら説いた。施明はついに白状し、仲間を残らず並べ挙げた。孫権はこれを奇特に思い、陳表の名声を全うさせようと特に施明を赦し、その仲間を誅殺した。陳表を無難右部督に移し、都亭侯に封じて旧来の爵位を継がせたが、陳表はすべて辞退し、爵位を陳脩の子陳延に伝えさせてほしいと願い、孫権は許さなかった。 正史 呉書 巻10 §40–41
嘉禾3年(234)、諸葛恪が丹楊太守を兼ねて山越を討伐平定したとき、陳表に新安都尉を兼ねさせ、諸葛恪と呼応させた。陳表が賜った復人200家は会稽郡新安県にいたが、陳表は彼らがみなよい兵になれると見て、上疏して官に返し精鋭を補わせてほしいと願った。詔が、先の将軍の功に対する国の報いであるのにどうして辞退するのかと言うと、陳表は、国賊を除き父の仇を討つには人が根本であり、この屈強で精悍な者たちを僮僕にするのは自分の志ではないと言って、すべて選び取って部隊に充てた。孫権はたいへん褒め、郡県に命じて正戸のうち弱い民を選んでその穴を埋めさせた。 正史 呉書 巻10 §41–42
陳表は在任3年のあいだ投降する者を広く受け入れ、兵1万余人を得た。任務を終えて戻ることになったとき、ちょうど鄱陽の民呉遽らが乱を起こして城郭を陥れ、属県が動揺した。陳表はすぐに境界を越えて駆けつけて討伐し、呉遽は敗れてついに降伏した。陸遜伝は、呉遽らの乱を嘉禾6年(237)のこととして記す。陸遜は陳表を偏将軍に任じ、都郷侯に進封し、陳表は北の章阬に駐屯した。 正史 呉書 巻10 §42–43正史 呉書 巻13 §48
陳表は34歳で死んだ。家の財産をすべて兵を養うのに使ったので、死んだ日には妻子が露天に立つことになり、太子孫登が彼らのために家を建ててやった。子の陳敖は17歳で別部司馬となって兵400人を授けられ、陳敖が死ぬと陳脩の子陳延が再び司馬となって彼に代わった。初めに陳表に感服した施明は自ら行いを改めて善良になり、ついに剛健な将となって将軍の地位に至った。 正史 呉書 巻10 §43–44
巻末の評は、この巻の将たちはみな江表の虎臣であるとし、陳表は武門の庶子でありながら貴族の子弟や名士と翼を並べ肩を競い、群を抜いて秀でていたのは、なんと立派なことではないかと述べた。 正史 呉書 巻10 §109
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。
- 統率62
- 武力42
- 知力52
- 政治58
- 魅力76
- 徳84
- 処世48
- 文芸50
- 弁舌52
- 用人58
項目別の根拠
正山越討伐に呼応し、鄱陽の呉遽の乱を討って降伏させた呉書 巻10 §41呉書 巻10 §43
正直接の記録なし — 将としての経歴から推定呉書 巻10 §39
正枷を外して説き、施明の自白を引き出した呉書 巻10 §40
正復人200家を兵に回し、3年で1万余人を得た呉書 巻10 §41呉書 巻10 §42
正兵が命を投げ出し、施明が感服し、群を抜いていたと評された呉書 巻10 §39呉書 巻10 §44呉書 巻10 §109
正罪を得た友を見捨てず、嫡母を奉じ、爵位と復人を辞退した呉書 巻10 §38呉書 巻10 §41呉書 巻10 §43
正直接の記録なし — 事績から推定呉書 巻10 §38
正東宮で孫登と『詩経』『書経』を講じた呉書 巻14 §2
正説き諭す言葉で施明に仲間をすべて白状させた呉書 巻10 §40
正復人たちがみなよい兵になれると見抜いた呉書 巻10 §41
正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。