演義の場面

破曹丕徐盛用火攻

事件紹介

「破曹丕徐盛用火攻」は、演義第86回の回目「難張温秦宓逞天弁 破曹丕徐盛用火攻」の後半の場面である。呉と蜀が手を結んだことに怒った曹丕は竜舟に乗って30余万の大軍で広陵に至るが、徐盛が一夜で築いたかのような偽の城に驚いて退き、孫韶と丁奉の襲撃と葦の火攻めに大敗する。この場面は広陵事変の一幕である。 演義 第86回 §26–29 · 38–46

陳寿の本文では、呉書巻10の徐盛伝が、徐盛が建鄴から防壁を築いて偽の望楼を立てる計を出し、広陵に至った魏の文帝が数百里にわたって続く防壁を見て驚いて退いたと記す。文帝紀は、黄初5年(224)9月に広陵に至り、10月に許昌へ戻ったと記す。 正史 呉書 巻10 §86正史 魏書 巻2 §46

演義の描写

演義第86回で、呉と蜀が友好を結んだと聞いた曹丕は辛毗の諫止を退け、司馬懿の計に従って蔡水・潁水から淮水へ進み、広陵で長江を渡ることにした。黄初5年(224)秋8月、竜舟10隻と戦船3千余隻に、曹真・張遼・張郃・文聘・徐晃らの水陸30余万を率い、司馬懿に許昌を任せた。 演義 第86回 §26–29

孫権は徐盛を安東将軍とし、建鄴と南徐の軍馬を任せた。江を渡って戦おうと言い張った孫韶は徐盛に斬られかけたが孫権のおかげで助かり、その夜精兵3千でひそかに江を渡り、徐盛は丁奉に計を授けて後を追わせた。 演義 第86回 §31–38

広陵の前の江に至った曹丕は、江南に人ひとり見えないのを怪しんだが、霧が晴れると南徐から石頭城まで数百里にわたって城郭が連なっていた。葦で作った人形に青い服を着せて立てた徐盛の偽の城を見た曹丕は、江南は図ることができないと嘆いた。荒れ狂う風で竜舟が転覆しかけ、文聘が曹丕を背負って救い出し、趙雲が陽平関を出たという急報に魏軍は退いた。淮水に入ろうとした魏軍は孫韶の襲撃を受け、魚油を注いでおいた葦に火がついて竜舟の行く手を塞いだ。岸では丁奉が討って出て張遼が腰に矢を受け、張遼は許昌に戻って傷口が裂けて死んだ。 演義 第86回 §38–46

演義と異なる点

偽の城:演義第86回では、徐盛は葦で人形を作り、偽の城と楼閣の上に立てる。正史の徐盛伝では、建鄴から防壁と偽の望楼を立てて江の中に船を浮かべ、文帝はこれを見て驚いたうえ江の水が大いに増したため退いた。呉主伝は、文帝が「彼に人有り、未だ図るべからず」と言って帰ったと記す。 演義 第86回 §42正史 呉書 巻10 §86正史 呉書 巻2 §51

孫韶の襲撃と火攻め:演義第86回では、魏軍は孫韶の襲撃と葦の火攻めで大半を失う。陳寿の本文の文帝紀は、黄初5年(224)9月に広陵に至り10月に許昌へ戻ったと記すのみで、孫韶伝にもこの戦いはない。 演義 第86回 §44–45正史 魏書 巻2 §46正史 呉書 巻6 §44

張遼の死:演義第86回では、張遼は丁奉の矢を受け、許昌に戻って傷口が裂けて死ぬ。正史の張遼伝は、張遼が曹休とともに海陵に至って呂範を破った年に病が重くなり、江都で死んだと記す。 演義 第86回 §45–46正史 魏書 巻17 §17

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

演義の登場回 (1)

正史の登場巻 (2)