演義の場面

袁本初敗兵折将 袁本初敗兵折將

事件紹介

「袁本初敗兵折将」は演義第26回の回目「袁本初敗兵折将 関雲長掛印封金」の前半の場面で、顔良を失った袁紹が文醜を送って仇を討とうとして、延津で文醜まで関羽に失う話である。延津之戦を描いた場面であり、袁紹は二度も劉備を斬ろうとしてはその言葉を聞いて思いとどまる。 演義 第26回 §1–2 · 12 · 14–16

陳寿の本文にも同じ戦いがある。魏書巻1武帝紀と巻6袁紹伝は、建安5年(200)袁紹が黄河を渡って延津の南で劉備と文醜に戦いを挑ませたが、曹操に破られて文醜を失ったと記す。 正史 魏書 巻1 §61–63正史 魏書 巻6 §51

演義の描写

第26回で袁紹は、顔の赤い長い髭の者がどうして雲長だけであろうかという劉備の言葉に考えを改め、顔良と兄弟のようだったという文醜に10万を与えて黄河を渡らせる。延津にとどまって官渡へ兵を分けて送ろうと言った沮授は叱られて病を口実に退く。文醜はたびたび敗れた劉備に3万を与えて後に続かせ、自らは7万で先に行く。 演義 第26回 §1–5

曹操は兵糧と秣を先に立てて延津へ送って文醜の兵に奪わせ、南の丘で鎧を脱ぎ馬を放ったまま待つ。文醜の兵が兵糧と馬を奪い合って乱れると曹操の兵が丘を下って攻め、文醜は追ってくる張遼を矢で射落とし、徐晃も退ける。しかし十余騎を率いて来た関羽とは三合ももたずに逃げ、後頭部に刀を受けて死ぬ。 演義 第26回 §6–12

後に続いてきた劉備は「漢寿亭侯関雲長」の旗を見て弟が曹操のもとにいると知るが、会えない。郭図と審配がまた関羽が文醜を殺したと言うと袁紹は劉備を斬ろうとし、劉備は、曹操が自分を袁紹の手で殺そうとしてわざと雲長を立てたのだと言い、雲長を呼び寄せて顔良と文醜の仇を討たせると言う。袁紹は喜んで兵を武陽へ退かせ、陣営を連ねて築く。 演義 第26回 §13–17

演義と異なる点

文醜を斬った人:演義第26回では関羽が延津で文醜を斬る。正史の武帝紀では、曹操が輜重を囮にして600に満たない騎兵を放って文醜を斬り、関羽が斬ったのは白馬の顔良だけである。 演義 第26回 §12正史 魏書 巻1 §61–63正史 蜀書 巻6 §4

劉備の位置:演義第26回で劉備は3万を率いて文醜の後に続き、戦いが終わった後に着く。正史の袁紹の伝は、彼が劉備と文醜に戦いを挑ませたとし、武帝紀は文醜と劉備が5、6千騎を率いて相次いで着いたと記す。 演義 第26回 §4–5 · 13正史 魏書 巻6 §51正史 魏書 巻1 §62

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

演義の登場回 (1)

正史の登場巻 (2)