演義の場面
曹孟徳敗師淯水 曹孟德敗師淯水
事件紹介
「曹孟徳敗師淯水」は、演義第16回の回目「呂奉先射戟轅門 曹孟徳敗師淯水」の後半の場面で、宛城の戦いの最初の戦いにおいて、降伏した張繍が再び背いて曹操の陣営を襲うくだりである。演義は、張済の甥張繍が賈詡を謀士とし、劉表と手を結んで宛城に駐屯すると、曹操が兵15万を起こして自ら討ちに行くところから始まる。 演義 第16回 §40–42
陳寿の本文にも同じ出来事がある。魏書巻1武帝紀は、建安2年(197)正月、曹操が宛県に至ると張繍が降伏し、その後再び背いたと記し、巻8の張繍伝、巻18の典韋伝、巻17の于禁伝にもこの戦いが載っている。 正史 魏書 巻1 §43正史 魏書 巻8 §57正史 魏書 巻18 §64–66正史 魏書 巻17 §29–31
演義の描写
演義第16回で曹操が淯水に陣を築くと、張繍は賈詡の勧めで降伏する。曹操は賈詡を謀士として用いようとするが賈詡は辞退し、曹操は宛城に入って数日留まる。ある日、酔った曹操が妓女を求めると、曹安民が張済の妻鄒氏を連れてきて、曹操は鄒氏とともに城外の陣営に移り、典韋に帳の外を守らせる。 演義 第16回 §42–46
これを知って怒った張繍は賈詡と相談して兵を中軍の近くに移し、偏将胡車児が典韋の双鉄戟を盗む計を出す。賈詡が典韋を招いて酔わせたその夜の二更、陣営のあちこちで火が起こり、戟を見つけられない典韋は歩卒の腰刀で二十人余りを斬り、刃が傷むと両手で敵兵二人をつかんで振り回す。陣営の門を防いでいた典韋は背に槍を受け、血を流して死ぬ。 演義 第16回 §47–52
曹操は右腕に矢を受けて陣営の後ろへ逃げ、徒歩で従っていた曹安民は清水河のほとりで斬られる。川を渡って岸に上がると馬が目に矢を受けて倒れ、長男曹昂が自分の馬を差し出した後、矢に当たって死ぬ。その間に于禁は略奪していた青州兵を討ち、弁明より先に陣営を築いて張繍の追撃を退け、張繍は劉表のもとへ行く。曹操は于禁を益寿亭侯に封じ、典韋の祭祀で、長男と愛する甥を失ったことよりも典韋のために泣くのだと言う。 演義 第16回 §53–57
演義と異なる点
背いた理由:演義第16回では、曹操が張済の妻鄒氏を迎え入れると、怒った張繍が賈詡と計を立てて襲う。正史の張繍伝では、曹操が張済の妻を迎え入れると張繍は恨みを抱き、曹操はその不快の様子を聞いてひそかに張繍を殺す計を立てたが、計が漏れると張繍が曹操を急襲した。 演義 第16回 §44–47正史 魏書 巻8 §57
典韋の戦い:演義第16回で典韋は胡車児に双鉄戟を盗まれ、腰刀と素手で戦う。正史の典韋伝では、典韋は降伏の宴の時に大斧を持って曹操の後ろに立ち、張繍とその将たちに顔を上げさせず、十数日後の襲撃の時には営門で長戟を左右に振るい、一突きごとに敵の矛十数本を折り、数十か所の傷を負いながら両腕に敵二人を挟んで殺した後、目をむいて罵りながら死んだ。 演義 第16回 §48–52正史 魏書 巻18 §64–66
曹操と曹昂:演義第16回で曹操は右腕に矢を受け、曹昂は馬を差し出した後に矢に当たって死ぬ。正史の武帝紀は、曹操が流れ矢に当たり、長男曹昂と甥曹安民が殺されたとだけ記し、曹昂伝は曹昂が南征に従って張繍に殺されたと記す。 演義 第16回 §53–54正史 魏書 巻1 §43正史 魏書 巻20 §4
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